コラム

81.「医師」と「医者」そして「先生」とは…

 青葉区医師会には、総務担当理事として運営に携わっています。平成28年8月号の医師会報巻頭言に以下の拙文を掲載しました。医師会員向けの文章ですが、当院のコラムとしても掲載します。

平成28年8月号巻頭言
 「医師」と「医者」そして「先生」とは…

古市 晋

 私たちが、日々行っている仕事は、臨床の現場で病める身体を元に戻そうとする継続的な作業です。作業を行う上で様々な治療法が、私たちが「医師」になった頃と比較して格段に発展して来ました。それは、基礎的な研究を行う者の地道な成果と同時に技術を使う者の弛まぬ努力の結果です。叡智とも言うべきiPS細胞が、もたらす技術の普及によって臓器再生が可能になり、技芸とも言うべき術者が、安定して血管を繋げる技術を伝承することで臓器移植が可能になりました。その倫理的な課題は別として基礎的な実験で仮説を実証する研究者の労苦と臨床的な実地で技術を発揮する術者の辛苦は、病める身体を元に戻す医療の両輪です。

 技術を手術場で発揮する脳神経外科領域では、顕微鏡を使った開頭手術とマイクロカテーテルを使った血管内手術が、Cadaver dissection による微小血管の解剖知見と有用な手術デバイスの開発によって Hybrid Neurosurgery として進化発展しつつあります。世間では、神の手を持つと言われる人が、注目を集めていますが、そのような「医者」が初めから存在するはずはありません。途方も無い時間をかけて鍛錬を続けた結果、匠の技術を習得した者が多くの患者に恩恵をもたらしています。匠の手を持つ者は、夜毎泣きながら試練に耐え自分を鍛えてやっと自在に行うことが許される位置に到達した。それは、個人の努力はもちろんのこと、それを抱える組織によっても支えられています。さらにその陰には世間に語れない少なからず患者の犠牲よって個人も組織も成長させてもらって来ました。

 さて「医師」と「医者」は、何が違うのでしょうか。
 そして「先生」とは、どのような人をいうのでしょうか。

 医師を目指す人は、幼い頃から真面目な家庭に育ち子供の時から成績も良く偏差値が高いいわゆる出来のいい子が多いと思います。偶然の星の下に生まれ育ったとは言えその環境は、本人の意識がないところで温室育ちです。世間の大きな波風にさらされることも少なく、ましてや貧困家庭で世間の底辺を見ることもない。私たちは、そんな幸せな環境下で自分の健康にも恵まれ努力を重ね試練を乗り越えて来ました。そして医師免許を取得した直後から仮にも「先生」と呼ばれて崇められて来ました。医師になるまでそれなりに苦労はあった…医師になってからも努力はして来た…とは言いながら多くの医師は、自身が健康であれば世間の苦労や生活の困難と離れた優位な立場にいると思います。

 私たちが、そんな優位な立場にいる医師人生を有り難いと思いつつ、その医師の視点は、どこか高見の見物をして高所からものを言っている場合が、多いのではないか。我が身や自分の家族が、命に係る病に陥って治療してもらう逆の立場になった時、病気を勉強して来た医師は、もっと深い人間の心を感性を磨いて勉強しなければならないと気づかされます。

 私たちが、勤める医療機関は、巨大な組織もあれば一個人によって営まれている機関もあります。その医療機関では、様々な患者を治療する機会を与えてもらっています。成書に書かれている内容を基礎的土台としながら現場で新たな発見があり、経験知を増やし成書に上書きされた自身の成書が少しずつ出来上がっていく。多忙な中で全ての患者を丁寧に診ることは、とても困難ですが、成書の上書きを重ねることで深みが加わる「医者」は、自ら傷つく経験によって研ぎ澄まされた限りなく低い視点から生まれるのだろうと思います。

 医療の中でごく一端を担うに過ぎない私たちの職を考える時、国家試験に合格すれば誰もが「医師」として資格を認定されます。その私たち医師は、いずれは自らも迎える生病老死を通して臨床経験を積み社会を通して人生経験を重ねてゆく。個人から見れば医師は、ただの私有財ですが、円熟した医者は、大きな公共財です。私たちの仕事に公共財の完成はなくどこまで大きく未完成で終わるか…その年輪の厚みによって患者からも社会からも信頼される心技体の人間力ある「医者」に近づけるのではないでしょうか。

 「先生」とは、学徳に優れた人、指導的立場にある人を指すとするならば、先生と呼ばれることに居心地が悪い気恥ずかしさを感じつつ、青葉区で地域医療を展開する私たち「学徒の医師」は、未だ「未完の医者」から僅かでも「範となる先生」に成熟できますよう継続的な作業を心を込めて日々の診療に傾注したいものです。

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