院長コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」|page7

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コラム一覧

54. 「患者」と「医者」のリスク・マネージメント

医者稼業をしていると・・・と言っても、たかが四半世紀なのですがいろいろな人々と出合います。

医者稼業、などと言うと患者さんに失礼な言い方になるかもしれませんが「稼業とは、生活費を得るための仕事」と定義されるならば私の職歴と現職は、医者しかありませんので、やはり医者稼業です。

その医者稼業を通して出合う多くの患者さんは、診察室だけではなく街でばったり出合うことも多いものです。

ある日の午後の昼下がりに、クリニックの近くにあるミスター・ドーナッツで久しぶりにコーヒーを飲みながら、シナモン・クルーラーを食べていると通院されている中年の女性患者さんに声を掛けられました。

 「あ~ら、先生、こんなところで・・・
  先生もこんなところに来られるんですね」と。
親しげに会話するその姿は、旧知の間柄の様です。

「こんなところに・・・」とは、店員さんに失礼なそんなことを大きな声で言ったら店長さんからムッとされますよと心の中でつぶやきながら「ええ、ちょっと気分転換に」と返事。

狭い店内で袖擦り合せる距離に、隣り合せで座りながらコーヒーを飲むこの男女の姿は、まるで高校生がデートしているような雰囲気です。
彼女は、さらにニコやかに、そして畳み掛けるように続けて話かけます。

 「こんなところで、ついでで申し訳ないのですが・・・」
  と前置きしながら
 「夫の病気のことなのですが・・・」と。

私は、彼女の名前と病名を思い出すのにしばらく時間を要しましたが会話をしているうちに彼女自身の治療が、おぼろげながら想起できるようになりました。
しかし、顔や姿も見たことのない旦那さんの症状を質問されても困ってしまいます。

でも、そこはサービス精神が旺盛な私は、診てもいない患者さんの治療方針をついお節介にも、あ~だ、こ~だ、とお説教を垂れるのでした。
気分転換に来たはずのコーヒータイムが、私の頭脳は、いつの間にか真剣モードに。

この治療方針は、「確かな診療」ではなく、「当てずっぽー診療」ですので間違いなく誤診でしょうから、どこか信頼できる医療機関に早期に受診されることを心からお勧めします。

だから・・・
というわけではないのですがその時の「架空診療」のお代は、出血大サービスです。

患者さんの中には、猜疑心の旺盛な人がいればその対極に、すべて医者にお任せで、一人の医者の言葉を妄信する人がいます。
実は、この妄信が、極めて危ない、危険なパターナリズム。

だって、私が・・・私自身を今一つ信用してませんから。

信用していない私自身から発する言葉を私が危ないと感じる時が、いつもではありませんが、あるのですから診てもいないのに、「当てずっぽー診療」を架空診療する私のような医者の言葉を全て妄信するのは、是非ともお止めになった方が、身の安全です。

唯一絶対の神を信じる一神教は、間違いのない絶対不滅の神であればこんな幸せな、有り難い存在はないでしょう。
でも、この唯一絶対の妄信が、危ないのです。

日本には、八百万(やおろず)の神がいるとされています。
文字通り800万も神様がいれば、繁盛していない神は「さぞかし(経営が?)大変だろうなあ」と密かに同情しつつ・・・

わずかなお賽銭で、数カ所の神に、多くの願い事を叶えてくれますように、と祈る自身も「とっても(性根が?)卑しい奴だなあ」と思います。

大手のブランド力のある神様が必ずしも願いを叶えてくれるとは限りません。

逆に中小の、あるいは零細の神様が意外と自身の感性にピッタリ合ったりもします。

日本では、今、医者不足が、叫ばれていますが医師免許を持っている人が、20万人以上もいるそうです。

こんなにたくさんの医者がいて、こんなに多くの医療情報が、氾濫していても
 どんな医者が・・・
 どこの場所で・・・
 どんな診療を・・・
如何なるスタンスで行なっているのか、が分かりにくい。

だから・・・
医者の数が足りない「医者不足」ではなくて医者を予測できない「医者不測」になっているのではないか、と思います。
不足とは、欠けていること。不測とは、計りがたいこと。

大手のブランド力のある病院にいる一人の医者だけに依存せず院内が、ガランとして、恵まれない、経営が!苦しそうに見える患者数が、少ない中小の、あるいは零細の医者にも診てもらうことで感性にピッタリ合った出合いが、意外にあるのかも。

これは・・・
境内が、ガランとして、恵まれない、経営が?苦しそうに見える信者数が、少ない中小の、あるいは零細の神様が、なんだかホッと落ち着けてお賽銭が、価値あると思えるように。

多くの神様が、住む日本の「多神教」のように今の日本では、多くの診療科が、力を合わせて協力する「多診協」が是非とも必要なのではないでしょうか。

患者さんに申し上げたい・・・
『一人の医者に依存したら危ないぞ。医者は、無欠な神様ではないんだよ』と。

私自身にいい聞かせたい・・・
『勘違いするなよ。お前は、路端にいる一介の脳外科医に過ぎないんだぞ』と。

患者の「医者選び」のリスク・マネージメントは・・・
医者の「日常診療」のリスク・マネージメントは・・・

医療に限らず、私たちが日常の生活において多くの人を『助け上手』になること、そして多くの人が『助けられ上手』にもなることだと。

それを、節度をもって協力し、共に生きる「共生」が患者と医者のリスク・マネージメントではないかと昨今の医療事情と通年の医者稼業を通じて思うのでした。

2009.11.22

53. ワーク・ライフ バランスの支柱

最近、ワーク・ライフ バランスという言葉を良く耳にするようになりました。
ワーク・ライフ バランスとは、直訳すると「仕事と生活の調和」という意味です。

経済界や労働界、そして政府や地方公共団体の合意によって策定された「ワーク・ライフ バランス憲章」に書かれている定義の意味するところは

 『国民一人ひとりが、生活に生き甲斐を感じながら、同時に仕事にもやり甲斐を感じ
  その相乗効果によって、さらに仕事上の責任を果たすとともに
  家庭や地域生活などにおいても、独身時代、子育て時代、中高年時代と
  年齢を重ねる各段階に応じて多様な生き方が選択、実現できる』

ということになります。

定義通りの生活と仕事が実現できれば、こんな素晴らしいことはないでしょう。
でも現実世界は、そう簡単にはいかないようです。

ワーク・ライフ バランスを考える前に人が、充実した人生を送るために、欠かせない要素は、一体何でしょうか?
と考えてみると、当り前のことですが、まずは、「健康」です。

「健康」なくして、充実した人生などあり得ない。
健康が、基礎にあって、その上にあるものが、「家庭」と「仕事」。
健康という基盤があって、その上に、家庭と仕事が、調和している。
この両者は、一対となって、生活を安定させるのでしょう。

その家庭と仕事の均衡を保つためには適切な「趣味」と適時な「教養」が、必要なのだと思います。

適切な趣味とは・・・乾いた時に、潤いある時間を、与える嗜みであり適時な教養とは・・・迷った時に、誤りない判断を、下せる素養である。
この両者は、セットとなって、人間を向上させるのでしょう。

そして、それらをさらに一層充実した人生を送るために不可欠で下支えしているもの・・・
それは、「財産」です。

「健康」が基礎にあって「家庭」と「仕事」が、一対となって生活を安定させ「趣味」と「教養」が、セットで人間を向上させる。
その下支えが、「財産」である。

人が、充実した人生を送るために欠かせない要素は、これら6つの柱。
もしこの6本のバランスが、うまくとれていれば仕合わせにつながるのだと思います。

健康・家庭・仕事・趣味・教養・財産6つの柱が、バランスよく均衡がとれていれば・・・でも・・・でもなのである。

そんなバランスのいい人生を歩める人は、むしろ少数派であって大多数の人は、6本の柱の中で、1、2本欠けている。
いやむしろ、柱が、半分しかない人さらに1、2本しか残っていない人も多いのではないか。

財産は、あるけれど、教養はない・・・
仕事は、多忙だけど、家庭は崩壊・・・
趣味は、熱心だけど、健康は人事・・・

現実的には、6つの要素は、均衡がとりにくい私たち。

しからば、ワーク・ライフ バランス憲章に書かれている『年齢を重ねる各階段に応じて多様な生き方が、選択実現できる』という理念はそれはそれで、理想として憬れつつ・・・では、一体どうしたらいいのか?

何事もあらゆる動きを「喜働」に取り組むことで6つの全ての要素が、全体にプラスに作用する生き方。

そんな歩みができれば、その人にとって充実した人生となり得るのではないでしょうか。

特に、仕事は・・・
どんな職場でどんな働きをするにせよ、自分の人生の中で大切な軸をしっかり持ち如何に、今与えられている「仕事の車輪」と自身の「人生の車軸」を重ね合わせて有意義に結びつけられるか

そして、仕事(=ワーク)と生活(=ライフ)という「車体」を同時に前に押し進められるか

そのためのエンジンを滑らかに動かす潤滑油が何事にも喜んで動く「喜働」という働き方なのではないか、と思います。

定時の就業時間が、1分でも過ぎれば途端にモチベーションが下がるという仕事の仕方をしている人がいればその人自身にとって、また職場にとっても良好な関係とはならず、有意義な結び付きとはならないでしょう。

私たちは、仕事上、自身の置かれた環境に不満を抱くことは、多いもの。
そして、多くの場合は、隣りの芝生が、とても青く見えるもの。

だから、そんな自身の置かれた環境に悩み不満を抱くより与えられたその環境が、「前提である」と割り切って自身の仕事を位置付けるしかありません。

でも、実際は会社の仕事が、楽しくて仕方ないというサラリーマンが家事が、大好きだという主婦が果たしてどれだけいるでしょうか。

多くのサラリーマンにとって月曜日の朝は、憂鬱なブルー・マンディーで金曜日の夜は、心弾むライト・フライディー。

自分の天職に出合い、好きなことを仕事にできて、それに没頭できる人は、ごく少数。
だから、天職でない、好きでない、没頭できない仕事をせざるを得ない凡庸な私たちは・・・

仕事の本質は、お金を稼ぎ、自立して生きていくための手段と割り切りながら仕事の品質を、高めるあらゆる働きを「喜働」に行なうことでワーク・ライフ バランスが、いつしかいい位置に均衡できる「支柱」になると思いたい。

私たちは
常に仕事を通して・・・、仕事を鏡として・・・
自身を反省し・・・、自身の歪みを正し・・・
人格を高めていく。

仕事が、人格の表現であるとするならば仕事の不出来や失敗は、その人の仕事に対する取り組み方オーバーな表現をすると、生き方に問題があるのかも。

だから、不断に自己の人格を磨くことが、結果としてよりよい仕事を達成し自己の仕合わせを成就することになるのだと思います。

ワーク・ライフ バランスを考える時・・・
職業としての仕事や日常の家事の中で頑張り過ぎない「喜働」の効用は、日々支柱となる計り知れない底力。

自身のために、家族のために、そして周りの人のために明るく元気に喜んで働ける日々が、一日でも長くありますようにと願いを込めたワーク・ライフの一日でした。

2009.11.5

52. マネー・リテラシー*の礎

*literacy=能力・知識・教養

昨年9月、リーマン・ショックに引き続き資本主義の世界経済が、破綻して1年あまりが、過ぎました。

私は、金融に関する知識がありませんので、破綻に至った理由や経緯が、如何なるものかそして、その結果招かれた混乱や影響が、どのようなものか、を熟知していません。
(実は、この2年ほど前まで、お金のことは、人任せ・・・
自身で銀行へ行ったことが、ほとんどありませんでした)

世界経済が、巨大化するにつれてというよりも、個人が扱えるお金の過多によってお金の動きは「目に見えない影の力」により動かされると言われます。

破綻した理由や経緯は、熟知していなくてもその「目に見えない影の力」とは、一体何だろうか?
と考えてみると、それは、限りないお金への「欲望」だと気付きます。

お金に対する欲望がない人は、誰一人としていないはず。
お金は、あった方が、いいと言われます。そして、私たちは、多くの人がそう思います。

実際に、あった方が、生活は楽になり、身も心も豊になります。
お金が、ないことで不幸になる現実を前にすれば、あった方がいいに決まっている。

ある調査によると、今一番ほしいものは、何ですか?と尋ねると老若男女と問わず多くの人は、「お金」と答えるそうです。
今やお金は、人々の夢になり、人生の目的となり、価値の基準になってしまいました。

多くの人たちは人が、お金を持っているか否か、収入が多いか少ないか、でその人を評価し物が、お金を生むか生まないか、儲かるか儲からないか、でその物を評価する。

すべて損か徳かに判断基準を置き、行動を決定するようになっている。
そのこと自体は、もの事を判断する上で、大切な一つの基準ではあってもお金がすべて、という風潮の行き過ぎた結果が昨年のリーマン・ショックだったのでしょう。

お金は、それ自体に価値が、あるわけではない。
人がつくった経済上の約束事として、いろいろな価値と交換できる流通の便宜から考え出された単なる道具である。

つまり、お金とは、物の価値を計るための手段でありリンゴを切る時に使うナイフのような道具に過ぎない。

人や社会のために使われ、世の中を循環して、人に仕合わせを運ぶもの。
本来のお金の役割は、そこにあると、誰もが知りながら・・・
いざ自身が得たお金との付き合い方といえば、とても難しいものです。

よく切れるナイフが、あったとしてリンゴを食べるために、切れるナイフは、あった方がいい。

でも、猟奇的殺人者以外に使わないナイフをたくさん趣味で持っていても、仕方ないと考えるのが、通常ですが、お金は、持つことが、目的化しやすいのです。

お金に執着して、金銭を至上のものと考える人にとって果たして、どれだけお金があったら満足するのでしょうか?

現在収入の2倍か・・・ 3倍か・・・ 10倍か・・・
あるいは、それ以上?
おそらく、どこまでいっても、満足することはないでしょう。

「幸福とは、満足する状態である」とすればその人は、永遠に幸福を得ることはできないばずです。

でも、現実として稼いだお金は、自分や家族のために使いたいのは、当たり前汗水垂らして働いて得たお金の使い道には、自ずと優先順位がある。
その夢をわずかでも満たしていくために、最低限のお金が必要です。

孟子は、次のように述べています。
「恒産(定まった収入)ある者、恒心(倫理心)あり
 恒産なき者、恒心なし」と。

経済的な安定がないと、身も心も落ち着かず安定した状態を維持することができないという意味です。

そして、収入が、増加し、預金残高が、増えることの意義は・・・

欲しい物を買うために、目的を叶えるためにお金という手段を得ることによって「選択」の枝が増えること。
と同時に、増えた選択肢によって精神的な「余裕」の幅が生まれることである。

必要なお金には、「優先順位」があり十分なお金には、「選択」の枝と「余裕」の幅によって「深懐暖志」(深い懐と暖かい志)が生まれるのだと思います。

そんな通常の気持ちを持ちながら道具であり、手段であるはずのお金を目的化しないようにお金と仕合わせが、ほぼイコールと錯覚しないように私たちは、お金との距離感を適切に保つ必要が、ありそうです。

では、お金に対する欲望に如何に対処すべきか・・・

お金で買えるのは、結局、欲望だけ、と知りつつ上手に使えば、最大限に役に立つ道具という捉え方をし適切な近ず離れずのスタンスを保ちながら、それ自体には執着しない。

今、私たちには、そんな叡智が問われている時代なのではないでしょうか。

ならば、お金を如何に「つかう」ことが必要なのかと考えるとそのお金の「使い方」は、敢えて「遣い方」と言い換えてもいいように思います。

お金の「使い方」と・・・
お金の「遣い方」は・・・どう違うのか?

 「使う」とは、人や物ごとを動かす意味
 「遣う」とは、心や気持ちを働かす意味

貨幣やお札の役割はその表層は、人や物ごとを動作し、「使役する道具」であってもその深層は、心や気持ちを労作し、「感謝する仕者」でもある。
そんな大きな役割を有していると気付きます。

お金は、人々を仕合わせにする道具ではあるけれどそのお金は、自分のため、人のため、社会のため自身を含めたより善い人生のために用いてこそはじめて本来の働きをするもの。

だから・・・
お金は、人が造った約束事、交換や流通の利便から考え出された道具ではあるけれどお金は、人の心を乗せて、初めて本来の働きをするのだと思います。

自身のことを述べるのは、気恥ずかしいのですが人として、おもいっきり「我執」を抱えながらある出来事から、自らの「固執」を突き放すようになりました。

それは、いくら努力しても、如何に頑張ろうとも
自身があの世に、お金を持って行くことが、できない・・・と
故人に、お金を届けることが、できない・・・と

高価なもの、贅沢なものより、価値あるもの、高貴なものがあると過去の忘れ得ぬ出来事が、知ら示めしてくれた。

今、医療を通して、お金を得ている者として医療を提供することで “ ありがとう ” とともにお金を手渡されそして、そのお金を使わせてもらうことでやって来た。

そういうことを、改めて思い返すとお金とは・・・  “ 感謝集めの切符 ”を配ることだと思います。
お金儲けとは・・・“ 恩返しの好循環 ”を回すことだと思います。

私たちは、どうしたら人から、もっともっとありがとう、を集められるのか私は、一人でも多くの人から、このような医療を提供してくれてありがとう、と思ってもらいその対価として気持ちよくお金を払ってもらえるのか。

それらを考え抜くことが、今、私たちに求められているマネー・リテラシー(=お金の取り扱い能力・知識・教養)の礎なのではないかと思います。

さて・・・
親愛なる、そして敬愛する「福澤諭吉」さま多くの人の懐を、ご躊躇なく、思いのまま、お暖め下さい。

そして、最後に・・・
そのお姿をよくよく拝見すれば眉間と、左鼻根部のホクロが、愛くるしいお顔と優しい眼差し。私の懐にも、ご遠慮なく、思いっきり、飛び込んで来て下さいね。

2009.10.11

51. 加齢の階段をまた一つ

「国民の祝日」が、ハッピーマンデー制度により今年は、9月の第3月曜日が、敬老の日となりました。

9月23日水曜日は、秋分の日。その間の9月22日火曜日もお休みでその日は「国民の休日」と呼ぶそうです。
土曜日も含めると5連休となり春のゴールデンウイークと並んで、秋のシルバーウイークと言われています。

秋の行楽時期のこの長期休暇を、有意義にお過ごしの方が、多いことでしょう。

日々、来院される高齢者を診察し待合室の BGM で流している竹内まりやさんの曲を聞きながら 「加齢」について想いを廻らしてみました。

まず最初に、「老人」とは、いったい何歳からをいうのでしょうか?
65歳・・・ 70歳・・・ 75歳・・・

一般的には、老人は65歳以上とされていますが、今の世の中で65歳以上を老人と呼ぶのは、ちょっと気の毒だと思います。

長嶋茂雄さん、加山雄三さん、高倉健さん・・・この方々は、70歳代です。
人に夢を与える仕事が、若さを保つ秘訣だと言えそうですがそれ以外の人でも、70歳以上でまったく元気な「老人」が、多いと思います。

クリニックの待合室で BGM に流している大好きな歌手・・・竹内まりやさんが、歌っている「人生の扉」の歌詞の中に、次のような表現があります。

 『 I feel it’s nice to be 50
  満開の桜や 色づく山の紅葉を
  この先いったい何度 見ることになるのだろう
  ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
  ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ』

この歌詞を竹内まりやさんの甘い歌声で聞くと言葉の深みと、メロディーの心地よさが相まって、心の奥底までズシリと響きます。そして、この歌は、次のような表現が続きます。

 『 I say it’s fine to be 60
  You say it’s alright to be 70
  And they say still to be 80
  But I’ll maybe live over 90 』

人生の先輩である50歳代の竹内まりやさんが、作詞作曲されたこの「人生の扉」は人生の分岐点を過ぎた世代が、やがて訪れる老いへの繊細な想いを綴った「訪老の応援歌」でもある。

竹内さんは「私は、50歳は、niceと感じる」シンガーソング専業主婦を自称する彼女が今、50歳は、nice(=素敵)である・・・と。

そして、将来、自分が重ねるであろう年代は
 「私は、   60歳は、fine だと言う
  あなたは、 70歳は、alright だと話す
  人々は、  80歳は、still だと唱える
  でも、私は、90歳を越えても 生きているだろう」と。

 60歳は、fine  (=元気)である・・・
 70歳は、alright (=健康)である・・・
 80歳は、still (=平穏)である・・・

そう唱える竹内さん自身は、90歳でも生きていたい、とこの歌で語っているように思います。

なぜなら60、70、80と、ひとつひとつ重ねる歳の重さを感じながら90になっても、なお、ひとりひとり愛する人たちのために生きてゆきたいと願っているから、と。

この歌は、末尾に
 『 長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にもあるさ
  But I still belive it’s worth living 』

“ やはり、生きることは、価値があると信じる ”
と最後に結んでいるところが、一番素敵で、私が最も好きなフレーズです。
そんな人生が、歩める人は、どんな幸せなことか、と思います。

さて、歳を重ねていくにつれてそれぞれが、注意すべきことは何か、ご存知でしょうか?

食事時のそれは特に「 カレー 」を食べた後は、「カレー臭」(加齢臭)を漂わせないようにご注意を!・・・

そして、歳を重ねた味わいが、「加齢臭」とはならず「華麗衆」(華やかで麗しい集まり)となって「嘉齢祝」(めでたい長寿のお祝い)となりますように・・・

いくつになっても
「今が、やっと turning (=人生の折り返し点)だよ
 アンタ、悔しかったら、私より遠くに折り返してごらん」とウインクする。

高齢になった時
「90歳は、もっと great (=偉大)だよ
 アンタ、悔しかったら、私よりさらに長生きしてごらん」と微笑む。

そんなお茶目で上手な歳をとりたいものですね。

私は、9月末に加齢への階段をまた一つ、数えます。
嬉しくもあり・・・ 哀しくもあり・・・ そして悔しくもある。

そんな心中で「加齢」について思いを廻らした連休中の敬老の日でした。

2009.9.21

50. 伊勢神宮と神々の美術

7月は・・・
降雨の日が多く、関東で梅雨明け宣言があっても全国的にはいつになったら夏になるのだろうと思う日々でした。

8月になっても・・・
曇りの日が多く、日照時間の不足で、農作物に影響が出ました。
スーパーへ買い物に行くと、トマトや野菜類の値段が、高くなり購入を一瞬、躊躇してしまいました。
そして、地震が、小規模ながら数回あり、肝を冷やしました。

9月になると・・・
日中は、夏の陽射しが、和らぎ朝夕には、涼風が立ち、めっきり涼しくなりました。

「天」も「地」も、あまり穏やかでなかったこの夏が、終わり夜には、涼しい風が、穏やかに流れ、虫が静かに鳴き始めるとすっかり秋の気配を感じるようになります。

8月晩夏のそんな夜は、「夜の秋」と呼ぶのだそうです。
「秋の夜」ではない「夜の秋」とは、晩夏の頃に夜だけ秋めいた気配になることで夏の季語です。

日中は、まだ夏の気配が残る8月下旬、夏休みを利用して上野にある東京国立博物館で開催された第62回式年遷宮記念特別展 「伊勢神宮と神々の美術」へ行きました。

伊勢神宮は、およそ2000年前に鎮座されたと伝えられています。
皇室の祖神として、政治的地位が高かった古代から中世には、朝廷の影響力が弱まるに従い全国の御祖神として、武士の崇拝を集めました。

武士が争う戦国時代に闘う武士たちが、無事を祈ってお参りしたのでしょう。

戦国期が終わり、江戸時代になると 「お蔭参り」で多くの民衆が、訪れるようになりました。

泰平の世、江戸町民の中に一生に一度はお伊勢さん信仰が流行。
日々の生活が、安泰に暮らせることを「御蔭様」と感謝しながらお参りしたのでしょう。

神のお蔭を被る意から、伊勢神宮の遷宮があった翌年を 「お蔭年」として参宮の人が多かったそうです。

「お蔭参り」とは、「お蔭年」に「御蔭様」として、伊勢神宮へ参拝すること。
戦国期に、民衆の気持ちが、戦乱ですさんだ時代を経て江戸時代になって、人々の心にお互いの感謝の気持ちが、お蔭参りとなった。

そのことが、永く続いた江戸時代に、民衆の心の安定に繋がり信仰の礎になったのだろうと思います。

伊勢神宮では、おおよそ1300年前から20年に一度「式年遷宮」として、正殿をはじめご装束神宝を全て作り替えて御神体を新宮に遷す行事が行なわれています。

内宮、外宮、別宮など全ての社殿を作り替え神に捧げる装束と宝物も全て新調する。
その数は、1500点にも上がると言われます。

当然、多くの財力と労力を要したことでしょう。
でも、一見無駄に見えても、財と労を集結し社殿や宝物をそっくりそのまま作るその過程が伝統技術を継承していくための知恵でもあった。

親世代から子世代へ、その知恵伝承は、ちょうど20年という年月が絶妙な間合いとなって、現在へと引き継がれています。

人の人生の節目は、今の時代でも20年。
20年経つと、自分の置かれた状況が、ガラリと変わっている。

人は変わる。しかし、神宮は変わらない。
20年に一度、全てを一新して、古いものが、常に新しくあるという人間の命の連続性を象徴する「常若(とこわか)の精神」を保ち続ける日本の伝統。

西洋の文化では、神殿を大理石で造ることで不滅を求めます。
一方、神宮では、まったく新しく造り替え、同じことを繰り返すことで命を繋いでいきます。

この日本の伝統こそが物資的にも精神的にも清潔を尊ぶ日本人の心の現れなのでしょう。

私たち日本人は、ある期間が満ちれば、変化することを好みその変化に機敏に対応します。

そして何かが変化することで、自身が新しくなり本来のあるべき姿に戻っていこうという考え方をするようです。

では、今の時代にも、伊勢神宮が特別な場所であるのは、何故でしょうか?

それは・・・

 神々に特別な想いを抱く人は少なくても
 常に静謐(せいひつ)な時間が流れ
 厳かな「静寂」に包まれる。

 人々が、どんな時代にあっても、悠久の時間を経ても
 伊勢神宮は変わらずに「存在」する。

その悠久な「静寂と存在」に、心が引かれるからだと思います。

平成25年は、62回目の式年遷宮の年。

神々の美術展を観賞して4年後の遷宮で、日本の心の絆が、強まることを願わずにはおれない9月になって、宵の静寂が、少し長くなってきた「秋の夜」でした。

2009.9.6

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