院長コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」|page9

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45. 限りない人の能力

米テキサス州で開催されたバン・クライバーン国際ピアノコンクールで全盲のピアニスト辻井伸行さん二十歳が、優勝されました。
多くの人たちが、この事実に驚嘆し、限りない賞賛の言葉を送ったことでしょう。

努力と鍛錬の賜物という、ありきたりの言葉では物足りず神が授けた天賦の才能という、安直な表現でも形容できない息が止まりそうな、感動をもってしか語ることができないそんな人生があったのか。

「驚嘆」という言葉でしか表現できない彼の人生は受賞後のインタビューでさらに「感動」という言葉が、増幅されたように思います。

成田空港に帰国した時、テキサスハットをかぶって到着ロビーに現れた辻井さんは詰めかけた報道陣の気配にやや緊張し、戸惑った表情でした。
でも、上気したその顔付きは、晴れ晴れした心境にも思えました。

もの心ついた頃から鍛錬して来た自身の全ての力を出し切ったことへの達成感とそれを支えてくれた周りの人々への感謝の気持ち。

そんな心情を織り混ぜて、辻井さんは、開口一番

 「良い結果を出せたのは、今までサポートしてくれた人たちのお陰
  ほんとうに感謝しています」

と語りながら、まるで、少年のように嬉しそうな満面の笑顔でリュックサックからメダルを取り出し、披露していました。

彼は、生まれながらにして盲目。
しかも、色も形も、一縷の光も、感知しない全盲だったようです。

色や形が、認識できない人が、どうやって、譜面を覚え、鍵盤を叩くのでしょうか?
鍵盤を叩くというより、這うような指先の動きは通常のピアニストでは、真似ができない芸術の域らしい。

単なる努力と鍛錬、そして、天賦の才能だけでは、片付けられない彼をそこまでの芸術に昇華せしめたのは・・・
まぎれもない全盲という負の要素でした。

障害を克服して、芸術品としての自分を高めた、その努力・・・
それと同時に、健常者であっても達成できないであろう、その高い音楽性・・・
その両方に、多くの人たちから、多大な拍手が送られているのだろうと思います。

でも、彼自身は、盲目という要素をどう感じ、何と思ってこの20年間を如何に過ごして来られたのでしょうか?

日常生活では、目が見えないことへの不便さは、語り尽くせないでしょう。

辻井さんの父親、産婦人科開業医(横浜市青葉区)でもある孝さんは
 「幸せな人生が歩めるか、常に不安を感じてきた息子だったが
  優勝の瞬間、生まれてきて良かったと感じてくれただろう。
  お世話になった方や、息子の目となり手足となり、付き添ってくれた妻に感謝したい」
とお話されていました。

しかし、おそらく・・・
彼にとって、全盲という世間で考える途方もない「障害」は彼自身には、ハンディーキャップとは、あまり、感じていなかったはず。
あるいは、ほとんど、自覚していなかったのではないだろうか、と想像します。

何故ならば、彼は、生まれながらにして色や形の認識が、できないという、ことが持って生まれた「個性」であり、「自分」であったから。

その「自分の個性」と、如何にして、馴染みながら、伴に、生きてきたかその20年だったのではないか、と思うのです。

世間から見れば、感嘆のため息をもってしか語ることができない人生は確かに苦難な道であったことでしょう。
本人はもちろん、家族しか知り得ないイバラの日々であったことでしょう。

でも、その全盲という個性から、障害以上の人間に成長した辻井さんへは

 「人には、限りない能力が、眠っている」ことに
 「人には、計り知れない潜在力が、宿っている」ことに

あらためて驚愕し、そしてさらに感動させられるのでした。

彼は、次のようにも語っています。
 「親孝行のため、早く自立して、よいお嫁さんを見つけて、安心させたい」とにっこり。

私たちが、二十歳の頃、こんな素敵な言葉が、素直に口から出て来たでしょうか。
親から独立できない若者が、多い今の日本社会にあって思わず、自身の若かりし頃も思い出して・・・。

彼は、さらに
 「一日だけ目が見える日があったら、一番見たいのは両親の顔。
  だけど、今は心の目でみているので満足しています」とも語っていました。

心の目でみる、とは、心で通じ合っているという純粋さを持つ人である。
“高い技術” と “美しい音色” は、もちろん技と音を通じて “純粋な心” が、伝わる演奏家として今、世の中に出た辻井さんはこれから自分の音楽で自身の世界を、さらに広げていく未来の人でもある。

味のある存在とは、苦難と不足に耐えた境遇から生まれるものなら現状に妥協しない姿勢によって限りない人の能力は、さらに伸びるだろうと辻井伸行さんは、私たちに「大切な示唆」と「大きな勇気」を与えてくれたのだと思います。

 眠っている能力・・・
 宿っている潜在力・・・

さて、私たち凡人は健常であるのが、当たり前と思って、甘えている怠惰な自身を如何にして賦活し、「自分の個性」と、伴に生きて行きましょうか?

2009.6.25

44. 「衣替え」と「心替え」の6月

6月は、春から夏への衣替えの季節ですがこの頃は、雨や曇りが多くて、晴やかな気分になれない日々が、続いていますね。
さらに、梅雨の時期になると、一層うつ的な気分が、心を支配してしまいます。
こんな時は、いったいどのように対処したらいいのでしょうか?

私は、一介の脳外科医の端くれですので心の病や精神の病気の治療に関しては、素人同然です。
私のような路端にいる old fashion-neurosurgeon (古風な脳外科医)は日常の診療の中では、古典的な診療を日々の仕事にしています。

訴えを聞き、その訴えの中にある、病の本質が、どこにあるのか、を推定し、検証する。
推定が、当ることもあれば、ハズレることもある。
過去を振り返ってみれば、推定がハズレている場合が、ほとんど・・・
のような気がします。トホホ。

でも、それはそれでよし。
何故ならば、邪悪な予感が、ハズレた方が、患者さんには、幸運だから。

 「病の本質が、脳腫瘍に原因があるのではないか、と推定して
  画像で検証してみたら、いやはや、ハズレでしたあ~」

これは、推定した人(医者)は、トホホですが、検証された人(患者)は、ワハハです。

日々、来院される多くの患者さんの治療では、現代という時が生む病をも同時に対応していかねばなない時があります。
それは、ストレスによる、リストラによる、今という時代が生むこころの病。

かつて、会期中に突然辞任した首相も、祖国で療養中にサッカーに興じた横綱も権力構造のトップや強靭と思われた人が見せた、思いがけない脆さや、釈然としない振る舞いは今日的な象徴でした。

私たちの中にも、しっかりと仕事をして、地道な家庭生活を営んでいる人が思わぬメンタルクライシス(=精神的危機)に陥ることもある。

日常の中に精神のピットホール(=落とし穴)が、誰しもいくつも隠れている。
それが、今そのものの、逃れようのない、現代であると思います。
でも、潜んでいる、そんな不測の事態に、全て備えることはできません。

しかし、修羅場の耐性力がない人と思考の柔軟性がない人が少なくとも、心の危機と、肉体の崩壊に陥らないためにもっと「成熟した大人の精神」を自身の中で育てていこうじゃないか、と。
かくいう私が、「成熟した大人の精神」を身に付けているわけでは、決してないのですが。

では、「成熟した大人の精神」とは、いったい何でしょうか?・・・

専門家ではない、どこにでもいる路端の old fashion-neurosurgeon が知ったかぶりで、偉そうに言うつもりはないのですがかつて学んだ精神医学の大家フロイトの一言を思い出すと「成熟した大人の精神とは、セルフコントロールの力を磨くことだ」と。

実は・・・
アスリートが、自己の肉体を鍛錬することも肥満者が、メタボにならないように食欲を抑えることも受験生が、誘惑に負けないように勉強に励むことも全てセルフコントロール、自己管理力だと言えそうです。

自己の心と肉体を、如何に上手にコントロールするかその力を磨くことができれば、社会的な耐性が培われ小さな物事に恐れず、何事にも臆しない力がつく。

 「そんなことを言われなくても、分かっているよ・・・」
 「それが、できないからこそ、困っているんだよ・・・」
と言われそうです。

そこで、自身の自己管理術はどうしていますか、と問われれば・・・
最低限のセルフコントロールとして、心掛けているのは日常で、“いつも心身を上機嫌モードにすること” である。
逆に言うと、“不機嫌さを冗長させないこと” だと。

不愉快な経験をした時、その不快な気分が、いつまでも心の中に居座っている状態とはあたかも手狭なマンションにあるタンスの中に、不要な洋服を買って、しまって置くようなもの。
そんな要らぬモノと同居しても、仕方ありません。

自分にとっても、周りの人にとっても、邪魔になって生産的ではありません。
不要な洋服は、消却処分しないまでも、不要品としてタンスの中に整理して閉まっておくことに限ります。

不快な感情は、ストレスとなって、心は晴れず、体も重く、ただただ疲れるだけ。
心が、整理されれば、そこには別ものが入るスペースができる。
そして、新しい愉快が、入り込んでくる余裕が生まれる。

そんな最低限度の心身を上機嫌にするセルフコントロールが自己管理の第一歩だと思います。

かつての old fashion に慣れ親しんだ私たちが、今風の modern smart を目指して現代のこころの病に陥らないために『いつでも、どこでも、上機嫌な、私作り』は自己に対しても、他者に対しても、至上の日常生活作法とされるべきでしょう。

下手な占い師を信じるより、やましい霊感師のお告げよりそして、究極は、馬鹿な医師に診てもらうよりまずは、自らの上機嫌力を身に付けることの方が、必要な健康法だと思います。

さあ・・・
「衣替えの6月」は現代という時が生む病にも、整理ダンスを上手に利用して「心替えの6月」として日々を過ごしていきましょうね。

2009.6.7

43. 二周年記念

5月24日は、開院二周年記念日でした。
2年前の今日、横浜青葉脳神経外科クリニックが誕生しました。
愛称は、ブレインクリニックと言います。

クリニックの名称、クリニックのロゴマーク、クリニックのコンセプトその全てにおいて、無い知恵をフル活動し、考えに考えぬいて構築したものでした。
だから、院内の配置、内装、備品、など一つ一つにこだわりと愛着があります。

 入り口と非常口は、どこにするのか?
 待合室、診察室、トイレの位置と大きさは、どれくらいがいいのか?
 重量ある MRI の搬入と磁場シールドは、どうするのか?

これら一つ一つに携わって、ご協力頂いた関連の皆様には「それが、あなたの仕事です」とは言え感謝の一語では、片付けられない大きな恩義があります。

事業を興すということは、その成果が、将来において人世のためにならなければ意義がありません。

その意味で、生産プロダクトの前に理念コンセプトを掲げて常にそれを反芻しながら、自己の行ないを修正する自身の掟として来ました。
それを、私は、五つの基本理念としました。

 1.社会に対しては、高い視野から眺める大局観
 2.人に対しては、限りなく低い立場から思いやる人間観
 3.公平で公正な判断
 4.心豊かに生きる努力
 5.個性的で特徴ある謙虚な目標

その一つ一つは、今でも変わることのない考えで、生き方でもある。
基本的で当たり前の理念を掲げた、ビギナー経営者の端くれが人・物・金の実務的な場面で、全責任を自分一人で背負うプレーイングマネジャーの大変さは一言では語り尽くせません。

こんなちっぽけなクリニックであっても、その責任の重さは尋常ではないのに従業員が、何万人もいる大きな会社、あるいはこの日本国のゆく末を担う人たちのプレッシャーはどんなに大変なことか、と思います。

でも、一人一人職員の将来の幸せをも含めて事業そのものが、自身の責任で、円滑に前に進める覚悟と気概がない人は初めから、そのような領域を歩む資格はないはず。
だから、そのような葛藤は、けっして表には出すまじと。

開院から2年・・・
私の医者としての役割りは健康を取り戻す「お手伝い」をすることだと改めて思います。
ランナーと伴に走る伴走者であると。

伴走者の役割りは、二つ。
まず・・・
悪いところ「粗探し」をするのが、最初の仕事です。
すなわち、それは人をディスカレッジすること、落胆させる役目です。
それは、それで重要な任務だと思います。

 「あなたの脳ミソは、こんなヒドい状態になっていますよ」と。
  脳は、隙間だらけのスッカ、スカ・・・
  血管は、枯れた樹木のようなボッロ、ボロ・・・
こんなことを言われた日には、それこそ、走ることを止めたくなる絶望の境地です。

でも・・・
探した粗の他に、良いところ「光探し」をすることも、側面的な次の仕事のはず。
すなわち、それは人をエンカレッジすること、励ます役目です。
それも、それで大切な任務だと思います。

 「あなたの脳ミソは、賞味期限が、まだ切れてないですよ」と。
  脳は、実味だらけでギッチ、ギチ・・・
  血管は、新鮮な若木のようにピッチ、ピチ・・・
道を間違えないように、伴走者が、沿道から見えたり隠れたりしながらもう少し一緒に走りましょうと。

実際には、初めての患者さんを前に、こんな粗雑な表現をすることは、ありません。
(患者さんが、私の愛の毒舌に慣れて来たら、こんな表現もあり・・・と思いますが)

「粗探し」でディスカレッジ(=落胆)し「光探し」でエンカレッジ(=激励)される。
伴走者が、送る二つの助言でランナーは、カレッジ(=勇気)をもらうのでしょう。

しかし、どんな悩みも自分の悩みは、最終的には自身で解決しなければならない。
走るそのパワーは、自分で培っていくしかない。
それをお手伝いするのが、単なる伴走者である医者の役割りだと改めて思うのです。

二周年を迎えた今日プレーしている自分とは別にもう一人、上空から俯瞰している自身がいます。
大空から全てを見た上で、この後、そこから何を引き出すのか。

頭デッカチになって、肌で感じたことを見失わないように5つの基本理念に立ち返って、成果が人世のためになるように明日から3年目をスタートしたいと思います。

皆様、どうぞ、よろしくお願い致します。

2009.5.24

42. 時間とは

5月中旬は、新緑の若葉というよりも晩春の満緑、といった季節になって来ました。
まさしく、緑がいっぱい満ちている時期、と言ってもいい。
若木から新芽が出て、若葉が繁茂する時間経過は、数週間単位で変化していきます。

植物は、春に気温や気象ととも成長する。
そこに生命力の強さと時間の早さを感じます。

2月4日が立春、5月6日は立夏でした。そして今、薫風の候。
時間は、だれでも平等に与えられているはずなのに、時間の速度は、人によって異なる。
この「時」に関する観念は、ヨーロッパと日本で、大きく異なると言われます。

万有引力を発見したイギリスの数学者で物理学者でもあるアイザック・ニュートンは地軸に向ってストーンと落ちるリンゴを眺めながら、冷めた視点で

時間とは・・・
 “それ自身で外界の何ものとも関係なく
 均一に流れる「絶対的」に独立して存在するもの”
としました。

しかし、日本においては、松尾芭蕉が桜の花びらが、風に吹かれて木から離れ、ひらひらと舞いながら、地面に落ちるまでの瞬間的な時間を切り取って

『さまざまな こと思い出す 桜かな』
という俳句を詠んでいます。

日本における時間とは・・・
 “何よりもその人の心の中を流れるものであり
 森羅万象と「相対的」な心の交流の在り方を意味しているもの”と。

アイザック・ニュートンは、1642年生まれで、75歳で亡くなっています。
一方、松尾芭蕉は、1644年生まれで、50歳で亡くなっています。
二人は、住んだ場所が違っても、生きた時代は、ほぼ同じ。

17世紀の近世ヨーロッパは、科学史上重要な発見や発明が、相次ぎました。
科学革命の時代と呼ばれたさ中、ヨーロッパ社会の思考が外へ外へと向った時勢に生れ出たニュートンは「時間は、絶対的な孤立した存在である」と考えた。

17世紀の近世日本は、安土桃山から江戸に移り、絵画や文学などが、発展しました。
文化発展の時代と呼ばれたさ中、鎖国へと進んだ日本社会の思考が内へ内へと向った時勢に生れ出た松尾芭蕉は「時間は、相対的な心の交流の在り方である」と考えた。

この二つの時の捉え方を、このように併記して、時代背景を考えてみると(如何に歴史を勉強していない私でも)何となく納得してしまいます。

同じ世代に生きながら、異なった環境によって時間の捉え方が、まったく違うことに得心しながら

では、一個人における生涯では時間の捉え方や感じ方は、どう違うのか?
と考えてみると・・・

一時間は60分、一日は24時間、一年は365日
誰でも知っている、皆が平等に与えられている絶対的な時間は年齢に応じてその価値が、相対的に異なることに気付きます。

子供の頃の若年時代と、大人になった後の中高年や老年時代では時の流れと時の質は、10倍以上の違いがある。
そう思うのは、私だけではないでしょう。

ニュートンがいう「時間とは、絶対的な孤立した存在」を理解しつつ松尾芭蕉がいう「時間とは、相対的な心の交流の在り方」にうなずく自分がいます。

この「時の流れ」と「時の質」をどう扱っていくのかは人が、一人で時を過ごす究極の命題であると思います。

すなわち・・・
「人が、一人になった時、寂しさという人生の最大の課題と、どう付き合っていくのか」

それは・・・
「克服しなくてもいい、どう折り合って、如何に、上手に親しんでいくのか」
であろうと、一人で私は熟考するのである。

アイザック・ニュートンと松尾芭蕉のお二人は、二歳の年齢差。
もし、彼らが、同じ学校で学んでいたなら、先輩後輩としてお互いを何と呼び合って、時に関して何を語っていたでしょうか?

私が、想像するに、次のように呼び合っていたと思います。

ニュートンは、後輩の松尾芭蕉を「お~い、松ちゃん・・・」と呼び、そして松尾芭蕉は、先輩のニュートンを「は~い、トンさん・・・」と返事する。

お互いを親しみを込めて尊敬し、また刺激し合って切磋琢磨することで、さらに高みへと突き進んだに違いありません。

そして、リンゴと桜に関する、時の言及では松尾芭蕉は、トンさんに、「林檎が、風に吹かれて、ストーンと落ちましたよ」と語りニュートンは、松ちゃんに、「桜花が、地軸に向って、フワーリと落ちましたぞ」などと。

『トンさん的時間の流れ』と『松ちゃん的時間の流れ』をお互いの視点で尊重しつつ語り合っていたのではないでしょうか。

最後に、稚拙な私の俳句を一つ・・・
 『時間とは 一人親しむ 櫻花かな』

時間とは、孤独になったその時、時と仲睦まじく、一片の櫻花を慈しむように一人で限られた時間を、安らかに過ごす生命であると。

植物が持つ生命の力強さと可憐さを思い、これからさらに加速していくであろう時間を掛け替えのない一刻として、過ごしていきたいと思う満緑の5月中旬でした。

2009.5.17

41. 訪問と墓参り

5月のゴールデンウイークは、新型インフルエンザ感染拡大による心配の中高速料金の定量化による割安感で、遠くへお出かけになったご家族・・・
あるいは、こんな時こそ、自宅近辺でじっとされていたご家族・・・
それぞれ、お過ごしになられたことでしょう。

私は、この休暇中、二つの目的で故郷富山へ帰省しました。
一つは、脳神経外科の恩師であり出身大学の学長まで勤められたT先生のお祝いのため、ご自宅へ「訪問」そして、もう一つは、1年ぶりの「墓参り」でした。

T先生は、私が医師になった時から、公私ともにお世話になった恩師です。
脳外科医としての基本を、直接ご指導頂いたばかりでなく人としての生き方を、後ろ姿を通して、お教え頂いた生涯で一番大切な先生です。

その先生が、この春の叙勲で、栄誉ある「瑞宝重光章」を受章されたのでした。

T先生は、声が、誰よりも大きく、太い。
その大きさと太さだけからすると、決して北島三郎に勝るとも劣らぬ声量をお持ちです。

そこへ、さらに、マーロン・ブランド流のドスが効いた重い言葉が、重なるとそこには、ゴッドファーザー風の魅力的で重厚な低音の響きが、周囲一体に漂います。
(マーロン・ブランド、ゴッドファーザーなどが出て来るところに自身の歳を自覚しますが)

医者になった頃、そんな魅惑的な声でも教授回診で多くの医者たちが、病室に群がる中、患者さんの眼前でその太く大きな声で怒鳴られる時には、腹の底まで響いて震え上がったものでした。

私たち新人の医者の頃は、教授回診の前日の夜、「教授回診対策」と称して先輩医師から如何に上手く、教授の怒りを買わずに、すり抜けるか・・・
そのノウハウと傾向と対策を伝授してもらいます。

深夜まで何回も予行演習を重ねて、当日の本番に臨んだものです。

そんなやり取りを通して、新人の医者にとって、教授回診は人の前で発表するプレゼンテーションの大切な初歩教育の場だったのです。

T先生は、多くの医者の中、患者さんの目の前で、新人の医者を容赦なく怒鳴りつけます。
また勉強不足が露呈すると、カルテを床に投げつけることさえあります。

でも、そのような洗礼を何回も受けるに従い新人医師は、人前で分かり易く発表し、鋭い質問にも、聴衆が納得できる返答をする。
そんな修羅場を少しづつ踏むことで、教育訓練されて行くのでしょう。

教授回診でそのような怒鳴り声や、カルテを投げ付けられるのは一定の傾向があることに、新人医師は、ある時気付きます。

怒声と投付けは、脳神経外科特有の意識障害のある患者さんの目の前だけ、という傾向に。
すなわち、ICU(Intensive care unit)という集中管理室で治療している意識障害がある患者さんについて討論している時に、「こと」が、集中していると。

意識がしっかりしている患者さんの目の前ではけっして、そのような下品で野蛮な振る舞いはしない。
それは、別室のカンファレンスルームでじっくり搾られます。

蛮行と思われたそのような諸作の使い分けには患者さん自身への配慮もあるし、新人医師の人格への思いやりもある。
その配慮と思いやりは、保身のためではない人への密かな愛が、こもっていたのだと思います。

メリハリの付いた教授回診は、脳神経外科の特色ある疾患の故でもあるのでしょう。
こんな野蛮な回診が、意識が全員清明である皮膚科で行なわれるはずはありません。
脳神経外科が、重症の意識障害を取り扱う領域だからこそ、出来た回診劇でした。

 (だから、皮膚科の先生は、優しい人が多いのかも・・・
  脳外科医は、心根がとっても繊細だけれど、野蛮な人が多いのかも・・・)

T先生は、そんな教授回診が終ると新米の医者であっても、一人の医師になった時には「おい、ふるいち・・・ガンバレよ」と声を掛けて下さるのでした。

脳外科医となって数年経った時T先生ご夫妻をお仲人に結婚式を挙げました。22年前のことです。

その後、仕事の多忙さを言い訳に、私たち夫婦は二人で、T先生宅へご挨拶に伺っていなかったことが心の底に引っ掛かっていました。

T先生の邸宅と実家の拙宅が、近いこともありいずれそのうち伺えばいいか、と思っていたのです。
でもチャンスを逸すると、なかなかそのような機会は、ありませんでした。

そこで6年前の年始、大晦日の当直が終った元旦の夕方、羽田から富山へ向うことにしました。
飛行機は、羽田から順調に飛行していました。

ところが、羽田では、快晴であった天候が、富山上空となった頃は、大雪となっていました。
日本海側の冬の天候は、予想が困難なのです。

富山湾と富山平野、そして能登半島の上空を何回も旋回しながら着陸のチャンスを探していましたが視界不良でついに着陸を断念。そのまま羽田へ舞い戻ってしまったのです。

雪深い地域では、年に数回そのような不遇があります。

やっと思い立って休みの日程を調整しそして、T先生にも元旦の夜に、大切な時間を作って頂いたにも関わらず着陸断念というジョーカーに見舞わられるとは・・・なんという不運なことでしょうか。

残念無念という他ありませんが、天候による不運は、覚悟の上の飛行ですので仕方ありません。
その後、夫婦でT先生宅をお伺いするチャンスは、ついに逃してしまいました。

そして・・・
4月29日、昭和の日。

新聞紙上でT先生が、「瑞宝重光章」を受章されたことを知った私はこの連休を利用して、ご自宅へ訪問させてもらうことにしました。

富山行き最終便は、悪天候もなく無事到着。そして、T先生宅へお祝いに直行しました。
(妻の遺影と開院時に二人で撮った記念写真を携えて・・・)

Tご夫妻は、私たちの訪問を深夜にも関わらず、大変歓迎して下さいました。
75歳になられたT先生の大きく太いお声は嗄れて、一層さらに重厚な低音となって、再び
 「おい、ふるいち・・・ガンバレよ」と・・・。

その翌日・・・
妻が、眠る墓前に1年ぶりのお墓参り。
だれもいない広い霊園の中に、一人静かに眠る妻を偲ぶと昔の数々の喜悲が、再び走馬灯のように蘇って来ました。

そして、過去の大きな喜びと深い悲しみの魂積で、胸が熱く込み上げて来ました。
瞼の向こうの景色は、蜃気楼のように揺れて、幻影を見ているように、棚引いていました。

私の5月のゴールデンウイークは、「訪問」と「墓参り」。
富山産の美味しいお寿司も食べることができた。

そして・・・
Tご夫妻が、いついつまでも、お元気にお過ごし頂きたいと念じ何より、心の底にあった引っ掛かりが、解消できた帰省でした。

さあ、明日から仕事です。ガンバリましょうね。

2009.5.6

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