コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」

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56. 毎年年末に思うこと

師走の気忙しい時期になりました。
外では、クリスマス会や忘年会などで飲食の機会が多くまた家では、年賀状書きや大掃除などで忙しい日々です。

12月末になるとテレビや新聞などで「この1年を振り返って」という類いの番組や記事が組まれます。
私たちにとって、この1年は、どんな年だったでしょうか?

毎日を単調に過し、物事を深く考えず、つい流してしまう生活になり勝ちですが12月は、そのような番組や記事をみることで、自己との対比の中から自省する絶好の機会です。

この1年間のさまざまな出来事を振り返えると社会で起った事、身の周りで起った事、自身で起った事、それぞれを思い返し社会の中で生きている私たちは、如何にチッポケな個人であってもその関わりの中で「生かされている」ことを思い知らされます。

若い頃、私は「生かされている」という言葉の意味をよく理解していませんでした。
というよりも、あまり深く考えていませんでした。

 「生かされている」ってどういうこと?
 「生きている」んじゃないの?

めんどくさい事は、後回しの私は、「まあ、どっちだっていいやあ・・・」と。
毎日を単調に、思考の回転を停止して、物事を深く考えず流している日々ではこんな感じで、あっという間に1年を過してしまいます。

でも、よくよく考えてみると・・・
この「生かされている」と「生きている」とは、言葉の単純な受動と能動の違いよりもその内実は、“ 漸減したり漸増したりする動態語である ” ことに気付かされます。

「漸減漸増する動態語」・・・それって、一体、どういう意味?

一番端的に分かり易い状況は、入院患者さんが、点滴や経管栄養を受けている時です。
何らかの理由で、自身の口から食事が摂れなくなった時私たちは、命を繋ぐために、外から種々の施しを受けます。

食事の量が、少なかったり、栄養状態が、悪化した場合点滴や経管栄養は、漸増されていきます。

それは、自らの力で「生きている」ことができないまさしく、他の力によって「生かされている」状態そのものです。

そして、自身の口から食事が摂れるようになると点滴や経管栄養は、徐々に漸減されて最終的に離脱できれば、自身のみで「生きている」状態になります。

このように「生かされている」ことと「生きている」ことに内包されている意味は医療の場面では、非常に分かり易い、事象が漸減漸増する動態言葉です。
動態とは、変動していく状態のこと。

このように考えると、社会で起っているいろいろな場面でも「生きている」私たちは、他から影響を受けながら、自ら変動し社会から「生かされている」事が、よく分かります。

では、生かされている私たちは、社会でどのように生きていけばいいのでしょうか?

物事の優先順位を付ける際の基準はなにか・・・
そして、何が大切で、何が大切でないのかを如何に判断するか・・・
その基準と判断によって、自分たちの今後の行く末が、決まると考えればたじろいでしまいます。思考停止になってしまいます。

この1年を振り返って社会で起っている事、身の周りで起っている事、自身で起っている事それぞれを重ね合わせると「生きている」私たちは、社会から「生かされている」今、うなずく一点があります。

それは・・・
 『一粒の雨が、集積すると、川の流れの源流となり
  やがては海へと注がれて、大海原に沈むように
  私たちもまた、無窮の時の流れの中で
  雨粒のような一過を生きているに過ぎない』と。
  (五木寛之著、大河の一滴より)

だから・・・
私たちは、喜怒哀楽の中で「生きている」だけで、まずは幸福だと思います。
私たちは、愛別離苦の中で「生かされている」ことが、有り難いと思います。

だって、世の中には、生きたいと願い、生かせて下さいと嘆願しながら運命の悪戯で、この世から去らねばならなかった余人が、大勢いるのですから。

12月のクリスマスを過ぎると、胸が張り裂けるような思いでもし可能なら時間を元に戻したいと念じながら、終日ベッドサイドで時を過した2年前を昨日のようにリアルに思い出します。

そして、多くの患者さんの命を救って来たつもりでいた私に救命できず故人となったかつての患者さんの貴重な尊い命の重さが今頃になって、私の背中に伸し掛かって来る時でもあるのです。

毎年、年末のこの時期になると、寂寞たる深夜に心ならずも亡くなった故人の冥福を心静かに祈りながら「生きている」ことと「生かされている」ことの意義を考え

そして、翌朝になって朝陽を浴びると「よ~し、(心は泣いても)顔は笑って、今日も一丁頑張ったろかあ~」と思う12月の末日なのでした。

多くのみなさま、今年も大変お世話になりました。
来年が、さらに良き年となりますように祈念しています。

2009.12.27

55. 輝く神秘的なイルミネーション

12月に入って、各地でイルミネーションが、とても綺麗に輝く時期となりました。
かつて、冬の東京の風物詩だった東京表参道のけやき並木イルミネーションが11年ぶりに復活したそうです。

1991年・・・
日本のイルミネーションの先駆けとして、点灯した『表参道イルミネーション』。
今年から新たに暖かみのある LED の光と、優しいベルの音が、融合した演出でけやき並木の夜の徊遊を楽しませてくれます。

1995年・・・
阪神・淡路大震災が、起ったこの年に始まった『神戸ルミナリエ』。
元町駅から近郊にある旧外国人居留地で開催される神戸ルミナリエは都市の復興と、再生への夢と願いを込めて、光のアートを見せてくれます。

京都の静寂な田舎町、京都府京丹波町市森では遊歩道の木々に浮遊する「冬ほたる」をイメージしてイルミネーション・オブジェを楽しむことができます。

私たちはそんな、賑やかな街のイルミネーション・シャワーを浴びることで今までに、堆積していた垢を洗い流します。

そして、光の洗浄によってこんな、爽やかに人のイマジネーション・パワーを刺激されてそこから、充填していく糧をもらうのでしょう。

全国各地、あらゆるところで、開催されているイルミネーション・ファンタジーはその一点の光源が、織りなす光の集積によって私たちの心を癒し、穏やで暖かい気持ちへと誘い、未来への希望を抱かせてくれる。

一つひとつの光は、ただ単に発光している光の点源に過ぎないのにその光源が、種々の組み合わせで折り重なる時・・・

その光源は
 種々の「光色」であったり・・・
 種々の「強弱」であったり・・・
 種々の「大小」であったり・・・

点源に過ぎない一つの光が、あらゆる組み合わせで集積するとファンタスティックに内在する光のエネルギーによって人々に夢を抱かせ、そして勇気を与える、偉大な魔法の力を発揮するのだと思います。

夏の風物詩である「ほたる」は微弱な光を放ちながら、空想的で幻想的な夜明けにさす曙光(しょこう)です。

都会では、なかなか見つけることができない「ほたる」はたった一光でも遭遇できれば、私たちの心に小さな炎を灯してくれます。

中国の晋の時代に、家が貧乏で灯す油を買えなかった学徒が、蛍の光で勉強をした。
同じ頃、別の学徒が、夜には、窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強をした。

この二人は、重ねた努力によって、長じては朝廷の高官に出生した今では、風化している「蛍雪の功」はそれでも、私たちの大切な心杖です。

ところで・・・
私の故郷である富山県にも暗闇の中に青緑色にイルミネーションを浮かび上がらせる「富山県の神秘」があります。
それは、なにか、ご存知でしょうか?

富山県のイメージは立山連峰、剣岳、寒ブリ、蜃気楼、深層水・・・などでしょうがもう一つ大切な名産があるのです。

それは・・・「ほたるいか」
富山湾のほたるいかは、産卵期の4月になると深海より海岸の浅瀬まで浮上してきます。

翌朝、産卵を終えて深海へと帰路につく時暗闇の早朝に緑青に輝くイルミネーションは富山湾の神秘として、国の特別天然記念物に指定されています。

産卵直前に身の張っている4月前後が旬で柔らかく、むっちりした独特の甘みが、応えられない美味しさです。

さて2007年5月に・・・
横浜青葉脳神経外科クリニックが、開院して早くも2年半が経ちました。

この間、私的な部分で難局がありましたが、多くの方々のご支援のお陰さまで現在に至っていることは、感謝以外の言葉が見つかりません。

そして2009年12月に・・・
当院は「医療法人ほたるいか 横浜青葉脳神経外科クリニック」として再スタートしました。

えっ・・・なんですか? その名前は・・・?
とお思いの方も多いでしょう。

通常、医療法人の名前は、「○○会」と称されることが、多いようです。
でも、そんな○○系○○会のような、どこかの怖い団体名は私の美的感覚には、そぐわないのです。

ある時は、奥歯で噛めば噛むほど味がでる、おやつの「するめいか」のように、またある時は、引っ張れば引っ張るほど伸びる、お刺身の「やりいか」や「まいか」のように

たとえ小さな光でも、美しく幻想的な「ほたるいか」の放つ輝きが人や社会を明るく照らす礎となりたいという理念に沿って「医療法人ほたるいか」と命名しました。

私たちが、この世に存在できる、生きていける理由その根底にあるのは・・・多くの人が、喜び、そのゆく末に、明るい社会の未来が、あるだろうと彼方に僅かな光が見えるから。

人間の幸せは、お金をたくさん手に入れて自己が、楽をするためだけに生きるのではない。

むしろ、周りの人々を楽にするための道のりを進み、その歩むプロセスの中でそれぞれに、自らの人間性を高めることが、本来の人間の幸せだという価値観。これは、多くの人が、共鳴できる観念だと思います。

「ほたるいか」は一縷の小さな光だけれどだからこそできる、人間性を高める人と社会への貢献を、目立たぬところで、謙虚に、目指します。

関係各位の皆様、よろしくご指導をお願い致します。

2009.12.6

54. 「患者」と「医者」のリスク・マネージメント

医者稼業をしていると・・・と言っても、たかが四半世紀なのですがいろいろな人々と出合います。

医者稼業、などと言うと患者さんに失礼な言い方になるかもしれませんが「稼業とは、生活費を得るための仕事」と定義されるならば私の職歴と現職は、医者しかありませんので、やはり医者稼業です。

その医者稼業を通して出合う多くの患者さんは、診察室だけではなく街でばったり出合うことも多いものです。

ある日の午後の昼下がりに、クリニックの近くにあるミスター・ドーナッツで久しぶりにコーヒーを飲みながら、シナモン・クルーラーを食べていると通院されている中年の女性患者さんに声を掛けられました。

 「あ~ら、先生、こんなところで・・・
  先生もこんなところに来られるんですね」と。
親しげに会話するその姿は、旧知の間柄の様です。

「こんなところに・・・」とは、店員さんに失礼なそんなことを大きな声で言ったら店長さんからムッとされますよと心の中でつぶやきながら「ええ、ちょっと気分転換に」と返事。

狭い店内で袖擦り合せる距離に、隣り合せで座りながらコーヒーを飲むこの男女の姿は、まるで高校生がデートしているような雰囲気です。
彼女は、さらにニコやかに、そして畳み掛けるように続けて話かけます。

 「こんなところで、ついでで申し訳ないのですが・・・」
  と前置きしながら
 「夫の病気のことなのですが・・・」と。

私は、彼女の名前と病名を思い出すのにしばらく時間を要しましたが会話をしているうちに彼女自身の治療が、おぼろげながら想起できるようになりました。
しかし、顔や姿も見たことのない旦那さんの症状を質問されても困ってしまいます。

でも、そこはサービス精神が旺盛な私は、診てもいない患者さんの治療方針をついお節介にも、あ~だ、こ~だ、とお説教を垂れるのでした。
気分転換に来たはずのコーヒータイムが、私の頭脳は、いつの間にか真剣モードに。

この治療方針は、「確かな診療」ではなく、「当てずっぽー診療」ですので間違いなく誤診でしょうから、どこか信頼できる医療機関に早期に受診されることを心からお勧めします。

だから・・・
というわけではないのですがその時の「架空診療」のお代は、出血大サービスです。

患者さんの中には、猜疑心の旺盛な人がいればその対極に、すべて医者にお任せで、一人の医者の言葉を妄信する人がいます。
実は、この妄信が、極めて危ない、危険なパターナリズム。

だって、私が・・・私自身を今一つ信用してませんから。

信用していない私自身から発する言葉を私が危ないと感じる時が、いつもではありませんが、あるのですから診てもいないのに、「当てずっぽー診療」を架空診療する私のような医者の言葉を全て妄信するのは、是非ともお止めになった方が、身の安全です。

唯一絶対の神を信じる一神教は、間違いのない絶対不滅の神であればこんな幸せな、有り難い存在はないでしょう。
でも、この唯一絶対の妄信が、危ないのです。

日本には、八百万(やおろず)の神がいるとされています。
文字通り800万も神様がいれば、繁盛していない神は「さぞかし(経営が?)大変だろうなあ」と密かに同情しつつ・・・

わずかなお賽銭で、数カ所の神に、多くの願い事を叶えてくれますように、と祈る自身も「とっても(性根が?)卑しい奴だなあ」と思います。

大手のブランド力のある神様が必ずしも願いを叶えてくれるとは限りません。

逆に中小の、あるいは零細の神様が意外と自身の感性にピッタリ合ったりもします。

日本では、今、医者不足が、叫ばれていますが医師免許を持っている人が、20万人以上もいるそうです。

こんなにたくさんの医者がいて、こんなに多くの医療情報が、氾濫していても
 どんな医者が・・・
 どこの場所で・・・
 どんな診療を・・・
如何なるスタンスで行なっているのか、が分かりにくい。

だから・・・
医者の数が足りない「医者不足」ではなくて医者を予測できない「医者不測」になっているのではないか、と思います。
不足とは、欠けていること。不測とは、計りがたいこと。

大手のブランド力のある病院にいる一人の医者だけに依存せず院内が、ガランとして、恵まれない、経営が!苦しそうに見える患者数が、少ない中小の、あるいは零細の医者にも診てもらうことで感性にピッタリ合った出合いが、意外にあるのかも。

これは・・・
境内が、ガランとして、恵まれない、経営が?苦しそうに見える信者数が、少ない中小の、あるいは零細の神様が、なんだかホッと落ち着けてお賽銭が、価値あると思えるように。

多くの神様が、住む日本の「多神教」のように今の日本では、多くの診療科が、力を合わせて協力する「多診協」が是非とも必要なのではないでしょうか。

患者さんに申し上げたい・・・
『一人の医者に依存したら危ないぞ。医者は、無欠な神様ではないんだよ』と。

私自身にいい聞かせたい・・・
『勘違いするなよ。お前は、路端にいる一介の脳外科医に過ぎないんだぞ』と。

患者の「医者選び」のリスク・マネージメントは・・・
医者の「日常診療」のリスク・マネージメントは・・・

医療に限らず、私たちが日常の生活において多くの人を『助け上手』になること、そして多くの人が『助けられ上手』にもなることだと。

それを、節度をもって協力し、共に生きる「共生」が患者と医者のリスク・マネージメントではないかと昨今の医療事情と通年の医者稼業を通じて思うのでした。

2009.11.22

53. ワーク・ライフ バランスの支柱

最近、ワーク・ライフ バランスという言葉を良く耳にするようになりました。
ワーク・ライフ バランスとは、直訳すると「仕事と生活の調和」という意味です。

経済界や労働界、そして政府や地方公共団体の合意によって策定された「ワーク・ライフ バランス憲章」に書かれている定義の意味するところは

 『国民一人ひとりが、生活に生き甲斐を感じながら、同時に仕事にもやり甲斐を感じ
  その相乗効果によって、さらに仕事上の責任を果たすとともに
  家庭や地域生活などにおいても、独身時代、子育て時代、中高年時代と
  年齢を重ねる各段階に応じて多様な生き方が選択、実現できる』

ということになります。

定義通りの生活と仕事が実現できれば、こんな素晴らしいことはないでしょう。
でも現実世界は、そう簡単にはいかないようです。

ワーク・ライフ バランスを考える前に人が、充実した人生を送るために、欠かせない要素は、一体何でしょうか?
と考えてみると、当り前のことですが、まずは、「健康」です。

「健康」なくして、充実した人生などあり得ない。
健康が、基礎にあって、その上にあるものが、「家庭」と「仕事」。
健康という基盤があって、その上に、家庭と仕事が、調和している。
この両者は、一対となって、生活を安定させるのでしょう。

その家庭と仕事の均衡を保つためには適切な「趣味」と適時な「教養」が、必要なのだと思います。

適切な趣味とは・・・乾いた時に、潤いある時間を、与える嗜みであり適時な教養とは・・・迷った時に、誤りない判断を、下せる素養である。
この両者は、セットとなって、人間を向上させるのでしょう。

そして、それらをさらに一層充実した人生を送るために不可欠で下支えしているもの・・・
それは、「財産」です。

「健康」が基礎にあって「家庭」と「仕事」が、一対となって生活を安定させ「趣味」と「教養」が、セットで人間を向上させる。
その下支えが、「財産」である。

人が、充実した人生を送るために欠かせない要素は、これら6つの柱。
もしこの6本のバランスが、うまくとれていれば仕合わせにつながるのだと思います。

健康・家庭・仕事・趣味・教養・財産6つの柱が、バランスよく均衡がとれていれば・・・でも・・・でもなのである。

そんなバランスのいい人生を歩める人は、むしろ少数派であって大多数の人は、6本の柱の中で、1、2本欠けている。
いやむしろ、柱が、半分しかない人さらに1、2本しか残っていない人も多いのではないか。

財産は、あるけれど、教養はない・・・
仕事は、多忙だけど、家庭は崩壊・・・
趣味は、熱心だけど、健康は人事・・・

現実的には、6つの要素は、均衡がとりにくい私たち。

しからば、ワーク・ライフ バランス憲章に書かれている『年齢を重ねる各階段に応じて多様な生き方が、選択実現できる』という理念はそれはそれで、理想として憬れつつ・・・では、一体どうしたらいいのか?

何事もあらゆる動きを「喜働」に取り組むことで6つの全ての要素が、全体にプラスに作用する生き方。

そんな歩みができれば、その人にとって充実した人生となり得るのではないでしょうか。

特に、仕事は・・・
どんな職場でどんな働きをするにせよ、自分の人生の中で大切な軸をしっかり持ち如何に、今与えられている「仕事の車輪」と自身の「人生の車軸」を重ね合わせて有意義に結びつけられるか

そして、仕事(=ワーク)と生活(=ライフ)という「車体」を同時に前に押し進められるか

そのためのエンジンを滑らかに動かす潤滑油が何事にも喜んで動く「喜働」という働き方なのではないか、と思います。

定時の就業時間が、1分でも過ぎれば途端にモチベーションが下がるという仕事の仕方をしている人がいればその人自身にとって、また職場にとっても良好な関係とはならず、有意義な結び付きとはならないでしょう。

私たちは、仕事上、自身の置かれた環境に不満を抱くことは、多いもの。
そして、多くの場合は、隣りの芝生が、とても青く見えるもの。

だから、そんな自身の置かれた環境に悩み不満を抱くより与えられたその環境が、「前提である」と割り切って自身の仕事を位置付けるしかありません。

でも、実際は会社の仕事が、楽しくて仕方ないというサラリーマンが家事が、大好きだという主婦が果たしてどれだけいるでしょうか。

多くのサラリーマンにとって月曜日の朝は、憂鬱なブルー・マンディーで金曜日の夜は、心弾むライト・フライディー。

自分の天職に出合い、好きなことを仕事にできて、それに没頭できる人は、ごく少数。
だから、天職でない、好きでない、没頭できない仕事をせざるを得ない凡庸な私たちは・・・

仕事の本質は、お金を稼ぎ、自立して生きていくための手段と割り切りながら仕事の品質を、高めるあらゆる働きを「喜働」に行なうことでワーク・ライフ バランスが、いつしかいい位置に均衡できる「支柱」になると思いたい。

私たちは
常に仕事を通して・・・、仕事を鏡として・・・
自身を反省し・・・、自身の歪みを正し・・・
人格を高めていく。

仕事が、人格の表現であるとするならば仕事の不出来や失敗は、その人の仕事に対する取り組み方オーバーな表現をすると、生き方に問題があるのかも。

だから、不断に自己の人格を磨くことが、結果としてよりよい仕事を達成し自己の仕合わせを成就することになるのだと思います。

ワーク・ライフ バランスを考える時・・・
職業としての仕事や日常の家事の中で頑張り過ぎない「喜働」の効用は、日々支柱となる計り知れない底力。

自身のために、家族のために、そして周りの人のために明るく元気に喜んで働ける日々が、一日でも長くありますようにと願いを込めたワーク・ライフの一日でした。

2009.11.5

52. マネー・リテラシー*の礎

*literacy=能力・知識・教養

昨年9月、リーマン・ショックに引き続き資本主義の世界経済が、破綻して1年あまりが、過ぎました。

私は、金融に関する知識がありませんので、破綻に至った理由や経緯が、如何なるものかそして、その結果招かれた混乱や影響が、どのようなものか、を熟知していません。
(実は、この2年ほど前まで、お金のことは、人任せ・・・
自身で銀行へ行ったことが、ほとんどありませんでした)

世界経済が、巨大化するにつれてというよりも、個人が扱えるお金の過多によってお金の動きは「目に見えない影の力」により動かされると言われます。

破綻した理由や経緯は、熟知していなくてもその「目に見えない影の力」とは、一体何だろうか?
と考えてみると、それは、限りないお金への「欲望」だと気付きます。

お金に対する欲望がない人は、誰一人としていないはず。
お金は、あった方が、いいと言われます。そして、私たちは、多くの人がそう思います。

実際に、あった方が、生活は楽になり、身も心も豊になります。
お金が、ないことで不幸になる現実を前にすれば、あった方がいいに決まっている。

ある調査によると、今一番ほしいものは、何ですか?と尋ねると老若男女と問わず多くの人は、「お金」と答えるそうです。
今やお金は、人々の夢になり、人生の目的となり、価値の基準になってしまいました。

多くの人たちは人が、お金を持っているか否か、収入が多いか少ないか、でその人を評価し物が、お金を生むか生まないか、儲かるか儲からないか、でその物を評価する。

すべて損か徳かに判断基準を置き、行動を決定するようになっている。
そのこと自体は、もの事を判断する上で、大切な一つの基準ではあってもお金がすべて、という風潮の行き過ぎた結果が昨年のリーマン・ショックだったのでしょう。

お金は、それ自体に価値が、あるわけではない。
人がつくった経済上の約束事として、いろいろな価値と交換できる流通の便宜から考え出された単なる道具である。

つまり、お金とは、物の価値を計るための手段でありリンゴを切る時に使うナイフのような道具に過ぎない。

人や社会のために使われ、世の中を循環して、人に仕合わせを運ぶもの。
本来のお金の役割は、そこにあると、誰もが知りながら・・・
いざ自身が得たお金との付き合い方といえば、とても難しいものです。

よく切れるナイフが、あったとしてリンゴを食べるために、切れるナイフは、あった方がいい。

でも、猟奇的殺人者以外に使わないナイフをたくさん趣味で持っていても、仕方ないと考えるのが、通常ですが、お金は、持つことが、目的化しやすいのです。

お金に執着して、金銭を至上のものと考える人にとって果たして、どれだけお金があったら満足するのでしょうか?

現在収入の2倍か・・・ 3倍か・・・ 10倍か・・・
あるいは、それ以上?
おそらく、どこまでいっても、満足することはないでしょう。

「幸福とは、満足する状態である」とすればその人は、永遠に幸福を得ることはできないばずです。

でも、現実として稼いだお金は、自分や家族のために使いたいのは、当たり前汗水垂らして働いて得たお金の使い道には、自ずと優先順位がある。
その夢をわずかでも満たしていくために、最低限のお金が必要です。

孟子は、次のように述べています。
「恒産(定まった収入)ある者、恒心(倫理心)あり
 恒産なき者、恒心なし」と。

経済的な安定がないと、身も心も落ち着かず安定した状態を維持することができないという意味です。

そして、収入が、増加し、預金残高が、増えることの意義は・・・

欲しい物を買うために、目的を叶えるためにお金という手段を得ることによって「選択」の枝が増えること。
と同時に、増えた選択肢によって精神的な「余裕」の幅が生まれることである。

必要なお金には、「優先順位」があり十分なお金には、「選択」の枝と「余裕」の幅によって「深懐暖志」(深い懐と暖かい志)が生まれるのだと思います。

そんな通常の気持ちを持ちながら道具であり、手段であるはずのお金を目的化しないようにお金と仕合わせが、ほぼイコールと錯覚しないように私たちは、お金との距離感を適切に保つ必要が、ありそうです。

では、お金に対する欲望に如何に対処すべきか・・・

お金で買えるのは、結局、欲望だけ、と知りつつ上手に使えば、最大限に役に立つ道具という捉え方をし適切な近ず離れずのスタンスを保ちながら、それ自体には執着しない。

今、私たちには、そんな叡智が問われている時代なのではないでしょうか。

ならば、お金を如何に「つかう」ことが必要なのかと考えるとそのお金の「使い方」は、敢えて「遣い方」と言い換えてもいいように思います。

お金の「使い方」と・・・
お金の「遣い方」は・・・どう違うのか?

 「使う」とは、人や物ごとを動かす意味
 「遣う」とは、心や気持ちを働かす意味

貨幣やお札の役割はその表層は、人や物ごとを動作し、「使役する道具」であってもその深層は、心や気持ちを労作し、「感謝する仕者」でもある。
そんな大きな役割を有していると気付きます。

お金は、人々を仕合わせにする道具ではあるけれどそのお金は、自分のため、人のため、社会のため自身を含めたより善い人生のために用いてこそはじめて本来の働きをするもの。

だから・・・
お金は、人が造った約束事、交換や流通の利便から考え出された道具ではあるけれどお金は、人の心を乗せて、初めて本来の働きをするのだと思います。

自身のことを述べるのは、気恥ずかしいのですが人として、おもいっきり「我執」を抱えながらある出来事から、自らの「固執」を突き放すようになりました。

それは、いくら努力しても、如何に頑張ろうとも
自身があの世に、お金を持って行くことが、できない・・・と
故人に、お金を届けることが、できない・・・と

高価なもの、贅沢なものより、価値あるもの、高貴なものがあると過去の忘れ得ぬ出来事が、知ら示めしてくれた。

今、医療を通して、お金を得ている者として医療を提供することで “ ありがとう ” とともにお金を手渡されそして、そのお金を使わせてもらうことでやって来た。

そういうことを、改めて思い返すとお金とは・・・  “ 感謝集めの切符 ”を配ることだと思います。
お金儲けとは・・・“ 恩返しの好循環 ”を回すことだと思います。

私たちは、どうしたら人から、もっともっとありがとう、を集められるのか私は、一人でも多くの人から、このような医療を提供してくれてありがとう、と思ってもらいその対価として気持ちよくお金を払ってもらえるのか。

それらを考え抜くことが、今、私たちに求められているマネー・リテラシー(=お金の取り扱い能力・知識・教養)の礎なのではないかと思います。

さて・・・
親愛なる、そして敬愛する「福澤諭吉」さま多くの人の懐を、ご躊躇なく、思いのまま、お暖め下さい。

そして、最後に・・・
そのお姿をよくよく拝見すれば眉間と、左鼻根部のホクロが、愛くるしいお顔と優しい眼差し。私の懐にも、ご遠慮なく、思いっきり、飛び込んで来て下さいね。

2009.10.11

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