コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」

  • 【ご相談・お問合せ専用ダイヤル】

    0459052272

    診療
    受付時間
    月~金8:30~18:00 /
    8:30~12:30
    ※土曜午後、日祝休診
  • 【予約専用ダイヤル】
    ※MRI・MRA検査予約の方
    ※診療予約の方

    0459052273

    電話
    受付時間
    月~金9:00~18:00 /
    9:00~12:30
    ※土曜午後、日祝休診

コラム一覧

36. 種を蒔く春

季節は、3月中旬となり増々暖かな日和が多くなってきました。
一日毎に気温が上昇するに連れて、木々のつぼみが、少しずつ芽吹くのを眺めていると成長する姿を確認する楽しみを味わうことができます。

春は、草花が、暖かい陽光を得て上へ上へとスクスク伸びゆく季節です。
春を英語で言えば、Spring スプリング。

スプリングとは、単純には、「バネ」ですがその中に、飛び跳ねる、とか、原動力、あるいは、飛躍、などの上昇への意味が込められており私たちの心と体に元気と活力を与えてくれる言葉です。

春は、私たち日常にとって、春夏秋冬が、また巡ってきた一季節ではあってもそこに内包されている飛び跳ねる原動力をさらなる飛躍へと継げる元気と活力にしたいものです。

ところで・・・
私たちは、毎年春になるとさらに上へと上昇するために「自身への種を蒔いている」でしょうか?

年齢を重ねれば重ねるほどに、身体ばかりではなく心も萎えていくほどに
昨年より今年が・・・、今年より来年が・・・
さらに向上するなどとはとても困難と思われることでしょう。

でも本当にそうでしょうか。
そして、実際にそれでいいのでしょうか。

脳の画像を何千、何万と多数例を診ている私にとって脳の断面の形態そのものは、その人がその年齢までに培って来た集積であると理解しながら必ずしも「脳の形態」と「脳の活動」が、正比例しないことに気付きます。

例えば・・・
年齢は、とても若く、まさしく弾けるような肉体をしてさらに頭の中もギッシリと中味が詰まった栗の実のようでも活動は、なんだか冴えない人がいます。クスんでショボショボしている人がいます。

一方では・・・
年齢は、高齢者で、まさしく朽ち落ちるような肉体をしてさらに頭の中も振ればコロコロと音がする鈴の中にある銅珠のようでも活動は、人々を魅了する人がいます。オーラを出してキラキラしてる人がいます。

この差は、いったい何なのでしょうか。
ショボショボと・・・キラキラの・・・違いは何?

歳を取るにつけて加齢現象にともなう脳の変化が、出て来ることはやむを得ないことです。
だから脳に異常があるか否かを判断する時には、あくまで年齢との相対比較。
厳密な判断基準などはないものの年齢と形態を相対的に評価することによって「この脳ミソ・・・問題あり」となります。

しかし、ここで言いたいことは、形態によって活動が規定されるのではないということ。
あの有名な物理学者、アインシュタイン博士は、素晴らしい頭脳を持っていながら脳そのものは、ガサガサしていたそうです。

そんな博士が、記念写真を撮る時に「笑って下さい」とのリクエストに応えてカメラの前で大きく目を見開いて舌を出した光景は長年培われた即座に対応できるお茶目なユーモアセンスの故なのでしょう。

アインシュタイン博士が、晩年まで興味が尽きなかった壮大な宇宙に関する「数学的自身への種蒔き」と「社会的他者への種蒔き」を絶やすことなく過ごしたことが、輝く源になったものと思います。

頭を振れば、鈴のようにチ~ンと音がしそうな脳・・・
頭を叩けば、銅のようにゴ~ンと音がしそうな脳・・・
そんな頭であっても人を魅了するセンスを持ち合せた老人は、素敵でカッコイイと思います。

春には、竹が節を付けながらスクスク成長していくように人も節目をしっかり付けることで次なる成長に進むことができる。

そこで節目となるこの春は・・・
歳が、いくつになっていてもスプリングという躍動ある節目の言葉を肥料として秋に収穫できる「新しい自分への種をまず一つ蒔いて」おきたいものですね。

そして、さらには・・・
自分のためだけに種を蒔くのではなく20年後に「人や社会に花が咲く種をもう一つ蒔く」よう心掛けたいものですね。

私たちは、幼き子であってもいずれは必ず訪れる老齢期に素敵てカッコイイ老人を目指して幼き頃から老後の準備を始めましょ・・・。

35. 卒業生に贈る言葉

3月のこの時期は、卒業シーズンでありあちらこちらの学校で卒業式が開催されている頃だと思います。

小学生は、6年間を、中学生と高校生は、3年間の就業年限を終えあるいは専門学校や大学でも自身が学んだ学舎を去る時は晴れがましくもあり、また寂しくもある瞬間です。

定められた就業年限を無事終えて卒業証書を手にした卒業生は今いったいどのような心境でしょうか。そして将来どんな希望を抱いているでしょうか。

どのような学校でも卒業できた事は、それはそれで大変おめでたい慶事だと思います。
自身の努力によって、そしてまた親や師、社会の周りの人々による協力によって無事卒業できたことに心からおめでとうと言って上げたい。

どのような学校でどのような学生時代を過ごしたかは、本人しか分からない。
家から学校までの通学途上で・・・、始業時から下校までの教室で・・・大笑いした経験や胸が張り裂ける経験・・・楽しい時や苦しい時がいっぱいあった。
その場には、本人しか分からない数々の想い出が詰まっていることでしょう。
そんな過去の思い出を胸に無事卒業できた事にまず素直に感謝したいものです。

私は、大学を卒業する時にある先生からアドバイスを頂いた事が、今も心に残っています。
それは・・・
「学生時代は、目の前に他人から与えられた課題をある期限までに終えればそれで済む。
 でも社会人になれば、これから自分の目の前にある課題を自ら見つけ出し
 無期限に取り組まなければならない」と。

学生時代は、課題は期限までに与えられるもの・・・。
社会人は、課題は無期限に自ら見つけ出すもの・・・。

この単純な思考の転換に大学を卒業する時、思わずドキッとしたものでした。
身が引き締まる一言が、数十年経った今も頭の片隅に「心の杖言葉」として残っています。

学校を卒業できた、それはそれで慶事でありながら、また次のステップへの一里塚でしかない。
学生時代を終えてもう相当な年月が経っている私には今も心の底に残っている大変有り難い言葉であり、生涯絶えることのない永遠のテーマです。

さて・・・
次に私が、3月に卒業する人にアドバイスするならば、どんな言葉を贈るでしょうか?

卒業する時点では、将来に対する不安と希望が交錯していることでしょう。
しかし、その不安と希望が、自身を克己する原動力となる。

そこで私が、卒業する人に贈る言葉は・・・

“ 20年後の未来に在りたい自分を想像しよう ”です。

20年後とは、西暦では、2030年です。
20年もの将来にいったい世の中が、どんな時代になっていてどんな社会になっているかを見通せる人などいるばすはありません。
閉塞感が、漂う今の世の中で1、2年の近未来さえもわかないのに20年後の有り様は、予想などできないことでしょう。

でも・・・
「20年後の自身が
 どんな人間になっていたいか、どんな生活をしていたいか、どんな生き方をしていたいかを
 予想は出来なくても想像することは出来るはずです。
 想像出来なかったら、20年後の夢と希望でもいい。

 将来、在りたい自分を想像することは
 無期限に取り組まなければならない自分の課題を自ら見つけ出す手掛かりでもある。
 ささやかなでも希望が実現できるように在りたい将来の自分を想像してみて下さい」と。
そんな単純な自己への問いかけが、卒業生に贈る言葉です。

小学校を卒業する12歳の人は、32歳・・・もう結婚している頃でしょうか。
高校を卒業する18歳なら38歳・・・心身とも充実した壮年になっていることでしょう。

20年後の将来、3月に卒業した若者が、どんな成長を遂げているか、どんな活躍をしているか2030年に陰から気付かれないように邪魔にならないところからそっと眺めてみたいものですね。

もし、“ 20年後に在りたい私自身 ”が、この世に存在していればの話ですが・・・。

2009.3.8

34.「おくりびと」が示す死生観

人が、亡くなる瞬間に立ち合うことが、医師の仕事の一つです。
医師は、ご家族が患者さんの周りを取り囲む中を呼吸が止まり心臓の拍動が無くなるのを確認します。

それを心電図モニターを見つつ、その波形が徐々に消失していく過程を追いながら波形が一直線になった直後、聴診器を胸に当てて心停止を確認します。

その過程は、あくまで避けられぬ運命を経る最後のセレモニーだと分かっています。
内科や外科などの命に関わる領域や救命救急に携わる領域の医師たちは亡くなる瞬間に数多く出くわし、その仕事を粛々と遂行します。

時間を元へは戻せない運命を命の最期の灯火である心停止まで見守るその瞬間はご家族はもちろん、医者にとっても居たたまれない心境です。
私は、そのような現場に脳外科医の宿命として数多く遭遇して来ました。
(そんな昔話をここでしようというのではありません)

亡くなられる患者さんのご家族にとって最期を看取るのは、慟哭の瞬間。
さらにその後の葬送は、親族の誰にとっても辛くもし可能ならば、できるだけ遠避けたい心境でしょう。

日常の生活では、年間の自殺者が3万人になった、とか、人殺しは誰でもよかった、などと人の命が軽んじられています。
そんな中で昨今、話題になっている『おくりびと』という映画は一人の人間の死が、日本の様式美としてどのように取り扱われているのかを私たちに再認識させてくれました。

主演の本木雅弘さんは、20代の頃にインドを初めて旅した時に目にした光景を語っています。
「インドでは、人が亡くなった後に野焼きされている周りを
 多くの親族が語らい、子供達が無邪気に走り回っている。
 生と死が、日常の中に溶け込んでいる国は、生き延びるという意味で過酷ではある。
 でも日々の中で生死を共存する事によって同時に安心感も生まれているのではないか」と。

人の命をどのように悼むかを示してくれた『おくりびと』。
それは“人は誰に愛され、誰を愛していたか、どんなことで人に感謝されていたかを知る事でもある”と言われます。
それらを一つ一つ確認することで人は癒され安心感を得るのだろうと思います。

納棺師が、執り行なう諸作は、あたかも茶道や華道に通じる日本の様式美でありその一つ一つの動きに私たちの心は、癒されるものです。
一人の死の悼み方を教えてくれた『おくりびと』は命が軽んじられているこの時代だからこそ、世界の人々にも共感を与えた。
その共鳴によってアカデミー賞授賞式で外国語映画賞に輝きオスカー像を与えられたのでしょう。

私たちは・・・
人生の第一、第二コーナーでは、日常的にとても現実感のない人の死。
第三コーナーに差し掛かって実際に人の死を看送る“送り人”の立場となる。
そして
第四コーナーでは、現実として迫り来る自身の死を看送られる“送られ人”の立場になる。

死を看取る医師も・・・
臨終に立ち合う事が、日常の仕事だとしても一人一人のその後の様子やご家族の心情が、如何なるものなのかは自身が、葬送の経験がない限り思いを広げる事はなかなかできないのかもしれません。

『おくりびと』を通して人の死の在り方が、リアリティーに提示されたことは命が希薄な今の時代にあって生を輝かせる意義としてけっして小さくないと思います。
いくつものシーンが、私たちが持つ死にゆく人に対する共通の観念を揺り動かすため多くの人たちが、映画館に足を運ぶのでしょう。

ところが、私は・・・
予告で映し出された一つのシーンが、残像として脳裏に焼き付き未だ観る気にはなれません。
「亡くなった美しき女性が、丁寧に死化粧を施され、その遺体が棺へ納められる」
そのリアルな場面に感涙しつつも、過去の忘れ得ぬ情景が重なりとても映画館へ足を運ぶ気にはなれないのです。

でも・・・
いずれ年月が経った頃、一人自宅で DVD を観ながら静かに流れる涙によって満たされない曇った心が、少し浄化されているかもしれません。
そんな時が、早く来てほしいなあと。

さて今日は3月1日
暖かい春の光を浴びて桜を愛でる日も近し。

3月は、気分を変えて数日間で咲き散る桜花を慈しみたいものですね。
慈しむとは、大切にするということ。

桜の木の下で(あまり飲めないお酒で)この世の宴を楽しみながら散りゆく花鱗を、瞬く間にこの世を去った、彼の地にいる最愛の命と見立てて・・・。

2009.3.1

33. 選択できる幸せと自己責任の重さ

日本の医療機関は、患者さんが、いつでも・・・、どこでも・・・、だれでも・・・
病院を受診できるフリーアクセスが特色です。
医療機関の事情で診療している時間や曜日に制限があったり日替わりで担当医師が、変更になったりする場合もありますが基本的には、患者さんが、自分の意志で自由に受診できるのが原則。

関東在住の人が、お気に入りの関西の病院を受診する事は、お金と時間さえあれば可能です。
数ある医療機関の中で自分の自由意志で選択できるチャンスが与えられている事は大変有り難いことである・・・とは思います。

でも・・・なのである。
治療をするか、しないか・・・、さらに治療をするにしてもどの医療機関で治療をするのか・・・はもちろん自分の意志で選択し決定できる。
このような自由に決定できる時に、人生を左右する、あるいは命に関わる病気を患った場合にはいったいどうしたらいいのでしょうか?

選択の自由は、いっぱいあります。
インターネットで検索すれば、医療機関のリストは無数に出て来ます。
お金さえあれば、遠方の医療機関でも受診することが可能です。
時間があれば、セカンドオピニオンで意見を伺うことも可能です。
病気に関する知識も簡単に手に入り勉強することができます。

それはそれで有り難いと思いながら・・・
その平面的な情報をどうやって選別して如何にして軽重を付けて有益な情報として重層化したらいいのでしょうか?

重層化するとは、情報が有機的に幾重にもつながっているということです。
一つ一つの情報が、ばらばらでは、最終的に決断する時に一つの情報だけに引っ張られてしまう。
自分の気に入らない情報は排除し、自己に都合のいい情報ばかりが頭に残るため選択の幅が大きい反面、その幅の中から自分に適合する中心を見つけ出すことは至難の技になるでしょう。

先日、ある女性患者さんの頭部 MRA 検査で未破裂脳動脈瘤が、発見されました。
その方は、大変聡明で勉強熱心、いろいろな情報を仕入れてセカンドオピニオンの助言を求めて病院巡りをされました。

ある医者からは、手術を勧められて不安に怯え・・・
ある医者からは、保存的療法を勧められて安堵する・・・。
その助言者の立つ位置によって患者さんの気持ちがその方向に引っ張られる。
助言者の意見によって大きな振れ幅の中で振り子のように揺れ動くその気持ちは察して余りあります。

疾患が、悪性腫瘍などの命に関わる病であれば尚更手術がいいのか、放射線療法がいいのか、薬物療法(抗がん剤)がいいのか、その他の療法・・・それらのどの組み合わせが適切なのか、素人にはさっぱり見当がつきません。
有益な情報を選別して有機的につなげるのは、そう簡単にできるものではないと思います。

未破裂脳動脈瘤を抱えた聡明なその患者さんが最終的に下した決断は?・・・ そしてその理由は?・・・

「過去に手術によって合併症を引き起こした経験を率直に話した医者の元で手術を受ける」と。
どんな医者でも神様でない人間が医療を行なっていると人には言いたくないスネに傷があるはず「自分の隠したい過去をさらけ出したそんな誠実で正直な姿勢に自分の運命を託してみます」と。

一方、その医者は、疾患に応じたデリケートさはあっても特別に個々の患者さんを区別して対応しているという意識は、たぶんないでしょう。
そして、いつもと変わらぬ誠実で正直な対応を通じてそれぞれの患者さんが、一点のきらめきと活力を出してくれれば嬉しいと思っていた事でしょう。

 “誠実 sincere ”とは、本音を通すとういうこと
 “正直 honest ”とは、嘘を言わないということ

でもそれは、医師として・・・
基本的で当たり前の資質であると思います。
何故ならば、患者さんは・・・
『選択できる幸せ』を享受する反面『自己責任の重さ』に耐えているのですから。

そんな基本的で当たり前の医療人の生き方がusual (いつも)で ordinary (通常)に common (普通)でありたいと願います。

2009.2.22

32.必要な沈思黙考・・・危惧が杞憂に終るために

脳の疾患の治療と予防が、当院の主な仕事として日々の診療に努めています。
脳の MRI 画像を撮る意義は、『過去~現在』に脳に起った“傷”がその証拠として捉えることにあります。

今、起った呂律困難や手足の運動障害、しびれ、あるいはめまいが脳に原因があるか否かが、即時に判別できます。
そして、画像の結果と症状を合せて『治療の妥当性』を検討します。
治療の妥当性とは、治療が当てはまるかどうか、ということ。
さらに言うと、余計な治療をする必要はないという意味合いがあります。

脳の傷を捉える MRI 画像でも全ての症状が、画像に反映されるわけではありません。
例えばうつ病やてんかんなどの機能的疾患は、MRI 画像の傷として捕まえることはできません。
神経伝達物質の異常や神経細胞の異常発火は、画像上の異常所見は出ないのです。

しかし、脳腫瘍や脳血管障害(脳梗塞、脳内出血、クモ膜下出血)、あるいは外傷による脳挫傷が背景にあり、それが原因でうつ状態やてんかん症状が引き起こされている場合もあります。
そのような基礎疾患が、隠れていないかを除外することにも MRI の意義があるのです。

では、脳の血管を調べる MRA 画像はどんな意義があるのでしょうか?
脳の血管を調べることによって『未来』に脳に起る“傷”の可能性を予想することにあります。
そして、画像の結果と年齢を合せて『予防の必要性』を検討します。
予防の必要性とは、予防がなくてはならないかどうか、ということ。
さらに言うと、無用の心配を増幅させないようにという意味合いがあります。

脳の血管が、動脈硬化で細くなっている場合その程度と部位によって将来起こり得る出来事を予想します。
脳の血管が、動脈瘤で膨れている場合にはこれもその大きさと部位、そして形などから治療と予防の妥当性と必要性を判断します。

したがって
脳の MRI 画像は、『過去~現在』・・・脳に起った疾患の痕跡を捉え
脳の MRA 画像は、『未来』・・・脳に起る疾患の可能性を予想する。
この二つの画像によって『治療と予防』を可能にしていると言えるでしょう。

治療と予防の妥当性と必要性を考える時に必要な視点は脳も年齢相応に老けていくという事実です。
いくらアンチエイジングと言っても脳は、加齢現象による変化を避けることができません。
年齢が重なる加齢の要素を考慮しながら治療と予防に思いを巡らすことになります。

画像を見ることで将来起こり得る可能性を全て予想できるわけでは、けっしてありません。
ほとんどの場合は、危惧される出来事が、取り越し苦労になって杞憂に終れば一番幸いと思います。

ところで・・・
最近、小中学校時代からの旧友、数人が、週替わりで当院を受診しアタマの写真を撮る機会がありました。
同級生ですから皆同い年です。御歳○○才。みなさんお互いにいい歳になったものです。
旧知の間柄の友人ですので会話は、全て昔のまま、率直でザックバラン。
同じ年齢を重ねた友人の脳が、一体どんな脳になっているのでしょうか?
自分の事のように心配です。

脳が縮んでいないか、いつの間にか脳梗塞が起っていないかあるいは脳腫瘍や脳動脈瘤が隠れていないか・・・
友人の言動や履歴からさまざまなことが、想定され危惧されます。

フランクな会話、でも、大切な友人。
その友人の画像をじっくり見て言葉を選びながら一人一人懇切丁寧に説明しました。

  曰く
 「重要な所見がありました。
  慌てず動揺しないように私の説明を聞いて下さい。
  いいですか。
  何を言われても冷静に聞いて下さいね。
  友人だから率直にざっくばらんに言いますよ。

  画像所見の結果は・・・
  ・・・(しばし画像を見つめて沈黙しつつ)・・・
  異常所見が・・・
  ・・・(さらに友人の顔を見つつ沈思黙考が数秒)・・・
  ア・ア・ア・・・
  ・・・(言葉が、言い澱む)・・・
  アリ・・・
  ・・・(ここで一旦区切って)・・・
  マセ~ンでしたあ~」

危惧が杞憂に終るためには、画像の凝視、患者さんの黙視その後、数十秒の沈思黙考がどうしても必要なのでした。

2009.2.15

ページトップへ戻る