院長コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」|page6

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コラム一覧

58. 清遊な余暇の時間

freedom(フリーダム)という英単語は、拘束や制限のない状態で日本語では、「自由」と訳されます。
この言葉の概念が、日本に入って来た明治時代に、なんと訳語をつけるかと悩んだ福澤諭吉は、「自(おのずから)由(よる)」と訳しました。

どのような人にも等しく与えられた24時間。
この24時間は・・・
睡眠や食事、あるいは勉学や仕事、そして余暇や遊びを含めて基本的に自由です。

この「おのずからよる」と訳された「自由」な時間を私たちは、如何に按分するか?
どのような割合で時間を割り振るか?はまさしくそれぞれ個人の自由です。

一日24時間を分かり易く単純化して、三つに分けると
 「生命を維持する時間」
 「義務を遂行する時間」
 「余暇を享受する時間」
になると思います。

「生命を維持する時間」は・・・
睡眠や食事、風呂や排泄などの基本的に生きるための時間ですのであまり自由度がありません。

「義務を遂行する時間」は・・・
学生時代は「勉学」でしょうし社会人になっては「仕事」ということになるでしょう。
この時間は、少し自由度がありそうです。

「余暇を享受する時間」は・・・
テレビや映画を観たり、新聞や本を読む時でもあるしスポーツに興じる時もあるでしょう。
自由度が、とても多い時間です。

高齢となって一線を引退された人は勉学や仕事などの義務から解き放たれてまさしく終日、自由な余暇の時間が、待っています。
この年齢に達すると、健康とお金があれば、自由度が、最高です。

私たちの24時間は生命を維持しながら、義務を遂行し、そして余暇を享受しています。

等しく与えられたその24時間を私たちはどんな時間に幸せを感じるのでしょうか?
人間の幸福は、如何なる時間にあるのでしょうか?

食事を楽しむ時間が、最大の幸せと感じる人もいるでしょうし仕事に徹する時間が、最高の喜びと思っている人もいます。あるいは趣味に興じる時間が、至福の悦楽と考える人も多いでしょう。

多種な人間が、幸せと感じ、喜びと思い、悦楽と考えることは、まさしく多様です。
でも、一番大切なことは・・・
これらの時間が、すべてリンクしながら、シンクロしているということです。

すべてが、リンク(関連)しながら、シンクロ(共鳴)しているとはいい食事や十分な睡眠をとっていないと、勉強や仕事が、はかどらないし勉強や仕事が、はかばかしくないと、趣味やスポーツどころではありません。
その逆もまた真であるということです。

人間の幸福観は、様々でしょう。
でも「余暇を享受する時間」が人の幸福感を耕すインキュベータ(培養器)の触媒になっているのではないかと思います。

余暇の時間の重要性を最初に説いたのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスでした。
強大なスパルタが、アテネに負けた敗因は、戦争が終った後の平和な時間をすべて次の戦争の準備に費やしてしまったからだと述べています。

無駄は、省かねばならない。
けれど車のハンドルが、少しの遊びがなければ動きにくいように人は、肉体や精神をギリギリまで追い詰めるとスパルタが、自己を追い込んで自滅した様に人間として動きが困難になってしまうのでしょう。

ところで・・・
最近のテレビ番組を観ていると出演者に知識力や語彙力を競わせるクイズ番組が、たくさんあります。
有名大学出身者をズラリと並べて、インテリ軍団とタレント軍団にその博学ぶりを競争させる番組です。

そんな番組を観ながら、クイズの問いにほとんど答えられない私はこの人は「頭いいんだなあ、すごい奴だなあ」と思いつつへそ曲りにフッと次のような想いも廻ります。

 『知識力や語彙力などを有する博学者は、それはそれで尊敬に値する。
  なんでも知っている人を見れば、憬れもする。
  けれど・・・
  その力が、単なる競争となって勝ち負けだけに使われるとすれば
  その努力は、ちょっと寂しいんじゃないのか』などと。

これは、クイズ番組を観ながら、正解を答えられない(私のような)愚者のヤッカミなのかもしれません。

番組に出て来るタレントは、有名大学を出た人も多いため難関な試験を突破できた基礎学力がある人たちですから学生時代は、暗記力が、よかったのでしょう。

インテリ軍団もタレント軍団も、クイズ番組に出るに当って、恥をかかないために今もさらに凄まじい勉強を、日々続けているのではないか、と想像します。

余暇の時間を、知識を得るために費やす毎日は、辛い日々であってもそれは同時に知的好奇心を満たす楽しい日々でもあるのでしょう。
実は、そんな日々を過ごせる人を、羨ましくも思います。

何故なら、それは、余暇の時間に費やした辛い日々の努力が遂行すべき義務の時間に、仕事なら日々の業務の中で勉強なら試験の結果として輝きを与えてくれるだろうから。

私たちは、「余暇の時間」の過し方によって遂行すべき「義務の時間」の輝きが、違うように思います。

でも、そんな余暇の時間におこなった知識を得るための勉苦が人を負かせるためだけに使われる努力では、もったいないと言いたいのです。
知識や才能がある人は、それが人や社会に役立って、はじめて花が咲くと言いたいのです。

では、それほど高尚でない私たち凡人はその余暇の時間をどのように過ごせばいいのでしょうか?

余暇の過し方で、どんな世代でも、とりわけ私たちが大切にしなければならない primitive(原始的で素朴)なことは心の疲労、つまり心労を避けることだと思います。

過ぎてしまったことへの後悔や、取り越し苦労などの「心の無駄を排する」こと。

昔から病は気からというように心労は、また肉体の病気とも密接に関連していることを忘れてはなりません。余暇は、俗世の心労から離れるのがいい。

そして、十分離れた後に、善きことを思う強い心を「養」ってはじめて心の休養となる。

だから、あ~でもない、こ~でもない、とくだらないことに心を惑わされないこと。
歳をとればとるほど、高齢になればなるほど残り少なくなっていく自由な余暇の時間に、心の無駄を費やさないこと。

24時間仕事バカを自認する多忙な人にとって
(ちなみに、私は、自身には12時間仕事バカ!残り12時間は自由バカ?と思っていますが)
余暇のいい時間の過し方は・・・
非日常的で利害を離れた清らかな遊びでありたいと思います。

たとえば、舞や能、歌舞伎などの芸能、あるいは絵画や書、茶道や華道、俳句や川柳などの日本の伝統的な「清遊」。つまり、清らかな遊び心を何よりも大切にしたいと思います。

自(おのずから)由(よる)と訳した財布の中の福澤諭吉さまにもっと多くの仲間を連れて来てもらおうと願うなら・・・自分の方を指差して、「こちらですよ」とお呼び掛けをして来訪された福澤諭吉クローン(遺伝子組成が完全に等しい増殖群)さまにさらに多くの自由を使わせて下さいませと望むなら・・・

私たちは、個人も社会も、果たすべき義務の時間が、もっと輝くために心の無駄を排した自由度ある清遊な余暇の時間を持つべきなのでしょう。

そんな清らかな触媒となる日々を、一日でも多く過ごしたいものですね。
そして、福澤諭吉さま、我が財布の中に「いらっ~しゃあ~い」。

2010.2.11

57. 新年の密かな抱負

ミレニアムで始まった2001年から早9年が過ぎ寅年の2010年が、始まって、1月は、もう半ばとなりました。

新しき年、庚寅(かのえとら)を晴れ晴れと迎えられたお正月は良き年でありますように祈られたことと思います。

今年の干支は、十二支の第三番目にあたる「寅」ですが関西人の多くの人たちは、「とら」と言えば阪神タイガースの「虎」を思い浮かべることでしょう。

生粋のネイティヴ関東人で映画好きなら、「とら」と言えば男はつらいよの葛飾柴又フーテンの「寅さん」を思い浮かべるかもしれません。

山田洋次監督の『男はつらいよ』の最終回である第49作目の上映が平成9年でしたので、このシリーズが終ってもう10年以上になります。

北陸出身の関西系関東人である私などは
(ちなみに、関西弁と標準語を巧みに操る自称バイリンガルと言っていますが・・・)
「とら」と言えば、銀座とらやの和菓子「虎屋のようかん」を思い浮かべます。

虎屋のようかんは、今も昔も古典的な和菓子の王様で一服のお茶をすすりながら、一切れのようかんを食べるとただそれだけで、風情ある江戸っ子生粋人に変幻できる私は和の風味を味わうにわか風流人の心情です。

さて2010年・・・
これからの10年、私たちは、一体如何なる年を重ねていくのでしょうか?

夢と現実の中で、期待と不安が、交錯し、新たな年の始めに多くの人が、心新たに良き1年となりますようにと誓ったことでしょう。

新年の抱負は、英語では、New Year’s resolution と言います。
resolution とは、決意、決心、決断などの強固な意志や不屈の気持ちを表す語ですが切なる渇望なら aspiration という語が適切でしょうし志ある大望なら ambition となるようです。

1月も半ばになりましたが、年頭にあたりこの1年の望みは・・・

低迷している阪神の「虎的力強い動き」が、社会の中に復興することをジャイアンツファンである私でさえも、渇望 aspiration し

山田洋次監督が描く「寅的優しい心情」が、人々の中に再興することを人間渥美清の大ファンである私こそが、大望 ambition します。

そして自身の抱負は・・・

庚寅の年初に、香り高き一服のお茶を嗜み一切れの虎屋のようかんを、生活の中で風情豊かに味わいつつ

お腹の周りを“ありゃ、いつの間に厚く・・・”とさすりながらoverweight(重量超過)や obesity(肥満)とならぬように二切れ目のようかんは、“イカン、自重しよ~”と密かに resolution(決意)した新年の始まりでした。

遅くなりましたがみなさま、今年もよろしくご指導をお願いします。

2010.1.14

56. 毎年年末に思うこと

師走の気忙しい時期になりました。
外では、クリスマス会や忘年会などで飲食の機会が多くまた家では、年賀状書きや大掃除などで忙しい日々です。

12月末になるとテレビや新聞などで「この1年を振り返って」という類いの番組や記事が組まれます。
私たちにとって、この1年は、どんな年だったでしょうか?

毎日を単調に過し、物事を深く考えず、つい流してしまう生活になり勝ちですが12月は、そのような番組や記事をみることで、自己との対比の中から自省する絶好の機会です。

この1年間のさまざまな出来事を振り返えると社会で起った事、身の周りで起った事、自身で起った事、それぞれを思い返し社会の中で生きている私たちは、如何にチッポケな個人であってもその関わりの中で「生かされている」ことを思い知らされます。

若い頃、私は「生かされている」という言葉の意味をよく理解していませんでした。
というよりも、あまり深く考えていませんでした。

 「生かされている」ってどういうこと?
 「生きている」んじゃないの?

めんどくさい事は、後回しの私は、「まあ、どっちだっていいやあ・・・」と。
毎日を単調に、思考の回転を停止して、物事を深く考えず流している日々ではこんな感じで、あっという間に1年を過してしまいます。

でも、よくよく考えてみると・・・
この「生かされている」と「生きている」とは、言葉の単純な受動と能動の違いよりもその内実は、“ 漸減したり漸増したりする動態語である ” ことに気付かされます。

「漸減漸増する動態語」・・・それって、一体、どういう意味?

一番端的に分かり易い状況は、入院患者さんが、点滴や経管栄養を受けている時です。
何らかの理由で、自身の口から食事が摂れなくなった時私たちは、命を繋ぐために、外から種々の施しを受けます。

食事の量が、少なかったり、栄養状態が、悪化した場合点滴や経管栄養は、漸増されていきます。

それは、自らの力で「生きている」ことができないまさしく、他の力によって「生かされている」状態そのものです。

そして、自身の口から食事が摂れるようになると点滴や経管栄養は、徐々に漸減されて最終的に離脱できれば、自身のみで「生きている」状態になります。

このように「生かされている」ことと「生きている」ことに内包されている意味は医療の場面では、非常に分かり易い、事象が漸減漸増する動態言葉です。
動態とは、変動していく状態のこと。

このように考えると、社会で起っているいろいろな場面でも「生きている」私たちは、他から影響を受けながら、自ら変動し社会から「生かされている」事が、よく分かります。

では、生かされている私たちは、社会でどのように生きていけばいいのでしょうか?

物事の優先順位を付ける際の基準はなにか・・・
そして、何が大切で、何が大切でないのかを如何に判断するか・・・
その基準と判断によって、自分たちの今後の行く末が、決まると考えればたじろいでしまいます。思考停止になってしまいます。

この1年を振り返って社会で起っている事、身の周りで起っている事、自身で起っている事それぞれを重ね合わせると「生きている」私たちは、社会から「生かされている」今、うなずく一点があります。

それは・・・
 『一粒の雨が、集積すると、川の流れの源流となり
  やがては海へと注がれて、大海原に沈むように
  私たちもまた、無窮の時の流れの中で
  雨粒のような一過を生きているに過ぎない』と。
  (五木寛之著、大河の一滴より)

だから・・・
私たちは、喜怒哀楽の中で「生きている」だけで、まずは幸福だと思います。
私たちは、愛別離苦の中で「生かされている」ことが、有り難いと思います。

だって、世の中には、生きたいと願い、生かせて下さいと嘆願しながら運命の悪戯で、この世から去らねばならなかった余人が、大勢いるのですから。

12月のクリスマスを過ぎると、胸が張り裂けるような思いでもし可能なら時間を元に戻したいと念じながら、終日ベッドサイドで時を過した2年前を昨日のようにリアルに思い出します。

そして、多くの患者さんの命を救って来たつもりでいた私に救命できず故人となったかつての患者さんの貴重な尊い命の重さが今頃になって、私の背中に伸し掛かって来る時でもあるのです。

毎年、年末のこの時期になると、寂寞たる深夜に心ならずも亡くなった故人の冥福を心静かに祈りながら「生きている」ことと「生かされている」ことの意義を考え

そして、翌朝になって朝陽を浴びると「よ~し、(心は泣いても)顔は笑って、今日も一丁頑張ったろかあ~」と思う12月の末日なのでした。

多くのみなさま、今年も大変お世話になりました。
来年が、さらに良き年となりますように祈念しています。

2009.12.27

55. 輝く神秘的なイルミネーション

12月に入って、各地でイルミネーションが、とても綺麗に輝く時期となりました。
かつて、冬の東京の風物詩だった東京表参道のけやき並木イルミネーションが11年ぶりに復活したそうです。

1991年・・・
日本のイルミネーションの先駆けとして、点灯した『表参道イルミネーション』。
今年から新たに暖かみのある LED の光と、優しいベルの音が、融合した演出でけやき並木の夜の徊遊を楽しませてくれます。

1995年・・・
阪神・淡路大震災が、起ったこの年に始まった『神戸ルミナリエ』。
元町駅から近郊にある旧外国人居留地で開催される神戸ルミナリエは都市の復興と、再生への夢と願いを込めて、光のアートを見せてくれます。

京都の静寂な田舎町、京都府京丹波町市森では遊歩道の木々に浮遊する「冬ほたる」をイメージしてイルミネーション・オブジェを楽しむことができます。

私たちはそんな、賑やかな街のイルミネーション・シャワーを浴びることで今までに、堆積していた垢を洗い流します。

そして、光の洗浄によってこんな、爽やかに人のイマジネーション・パワーを刺激されてそこから、充填していく糧をもらうのでしょう。

全国各地、あらゆるところで、開催されているイルミネーション・ファンタジーはその一点の光源が、織りなす光の集積によって私たちの心を癒し、穏やで暖かい気持ちへと誘い、未来への希望を抱かせてくれる。

一つひとつの光は、ただ単に発光している光の点源に過ぎないのにその光源が、種々の組み合わせで折り重なる時・・・

その光源は
 種々の「光色」であったり・・・
 種々の「強弱」であったり・・・
 種々の「大小」であったり・・・

点源に過ぎない一つの光が、あらゆる組み合わせで集積するとファンタスティックに内在する光のエネルギーによって人々に夢を抱かせ、そして勇気を与える、偉大な魔法の力を発揮するのだと思います。

夏の風物詩である「ほたる」は微弱な光を放ちながら、空想的で幻想的な夜明けにさす曙光(しょこう)です。

都会では、なかなか見つけることができない「ほたる」はたった一光でも遭遇できれば、私たちの心に小さな炎を灯してくれます。

中国の晋の時代に、家が貧乏で灯す油を買えなかった学徒が、蛍の光で勉強をした。
同じ頃、別の学徒が、夜には、窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強をした。

この二人は、重ねた努力によって、長じては朝廷の高官に出生した今では、風化している「蛍雪の功」はそれでも、私たちの大切な心杖です。

ところで・・・
私の故郷である富山県にも暗闇の中に青緑色にイルミネーションを浮かび上がらせる「富山県の神秘」があります。
それは、なにか、ご存知でしょうか?

富山県のイメージは立山連峰、剣岳、寒ブリ、蜃気楼、深層水・・・などでしょうがもう一つ大切な名産があるのです。

それは・・・「ほたるいか」
富山湾のほたるいかは、産卵期の4月になると深海より海岸の浅瀬まで浮上してきます。

翌朝、産卵を終えて深海へと帰路につく時暗闇の早朝に緑青に輝くイルミネーションは富山湾の神秘として、国の特別天然記念物に指定されています。

産卵直前に身の張っている4月前後が旬で柔らかく、むっちりした独特の甘みが、応えられない美味しさです。

さて2007年5月に・・・
横浜青葉脳神経外科クリニックが、開院して早くも2年半が経ちました。

この間、私的な部分で難局がありましたが、多くの方々のご支援のお陰さまで現在に至っていることは、感謝以外の言葉が見つかりません。

そして2009年12月に・・・
当院は「医療法人ほたるいか 横浜青葉脳神経外科クリニック」として再スタートしました。

えっ・・・なんですか? その名前は・・・?
とお思いの方も多いでしょう。

通常、医療法人の名前は、「○○会」と称されることが、多いようです。
でも、そんな○○系○○会のような、どこかの怖い団体名は私の美的感覚には、そぐわないのです。

ある時は、奥歯で噛めば噛むほど味がでる、おやつの「するめいか」のように、またある時は、引っ張れば引っ張るほど伸びる、お刺身の「やりいか」や「まいか」のように

たとえ小さな光でも、美しく幻想的な「ほたるいか」の放つ輝きが人や社会を明るく照らす礎となりたいという理念に沿って「医療法人ほたるいか」と命名しました。

私たちが、この世に存在できる、生きていける理由その根底にあるのは・・・多くの人が、喜び、そのゆく末に、明るい社会の未来が、あるだろうと彼方に僅かな光が見えるから。

人間の幸せは、お金をたくさん手に入れて自己が、楽をするためだけに生きるのではない。

むしろ、周りの人々を楽にするための道のりを進み、その歩むプロセスの中でそれぞれに、自らの人間性を高めることが、本来の人間の幸せだという価値観。これは、多くの人が、共鳴できる観念だと思います。

「ほたるいか」は一縷の小さな光だけれどだからこそできる、人間性を高める人と社会への貢献を、目立たぬところで、謙虚に、目指します。

関係各位の皆様、よろしくご指導をお願い致します。

2009.12.6

54. 「患者」と「医者」のリスク・マネージメント

医者稼業をしていると・・・と言っても、たかが四半世紀なのですがいろいろな人々と出合います。

医者稼業、などと言うと患者さんに失礼な言い方になるかもしれませんが「稼業とは、生活費を得るための仕事」と定義されるならば私の職歴と現職は、医者しかありませんので、やはり医者稼業です。

その医者稼業を通して出合う多くの患者さんは、診察室だけではなく街でばったり出合うことも多いものです。

ある日の午後の昼下がりに、クリニックの近くにあるミスター・ドーナッツで久しぶりにコーヒーを飲みながら、シナモン・クルーラーを食べていると通院されている中年の女性患者さんに声を掛けられました。

 「あ~ら、先生、こんなところで・・・
  先生もこんなところに来られるんですね」と。
親しげに会話するその姿は、旧知の間柄の様です。

「こんなところに・・・」とは、店員さんに失礼なそんなことを大きな声で言ったら店長さんからムッとされますよと心の中でつぶやきながら「ええ、ちょっと気分転換に」と返事。

狭い店内で袖擦り合せる距離に、隣り合せで座りながらコーヒーを飲むこの男女の姿は、まるで高校生がデートしているような雰囲気です。
彼女は、さらにニコやかに、そして畳み掛けるように続けて話かけます。

 「こんなところで、ついでで申し訳ないのですが・・・」
  と前置きしながら
 「夫の病気のことなのですが・・・」と。

私は、彼女の名前と病名を思い出すのにしばらく時間を要しましたが会話をしているうちに彼女自身の治療が、おぼろげながら想起できるようになりました。
しかし、顔や姿も見たことのない旦那さんの症状を質問されても困ってしまいます。

でも、そこはサービス精神が旺盛な私は、診てもいない患者さんの治療方針をついお節介にも、あ~だ、こ~だ、とお説教を垂れるのでした。
気分転換に来たはずのコーヒータイムが、私の頭脳は、いつの間にか真剣モードに。

この治療方針は、「確かな診療」ではなく、「当てずっぽー診療」ですので間違いなく誤診でしょうから、どこか信頼できる医療機関に早期に受診されることを心からお勧めします。

だから・・・
というわけではないのですがその時の「架空診療」のお代は、出血大サービスです。

患者さんの中には、猜疑心の旺盛な人がいればその対極に、すべて医者にお任せで、一人の医者の言葉を妄信する人がいます。
実は、この妄信が、極めて危ない、危険なパターナリズム。

だって、私が・・・私自身を今一つ信用してませんから。

信用していない私自身から発する言葉を私が危ないと感じる時が、いつもではありませんが、あるのですから診てもいないのに、「当てずっぽー診療」を架空診療する私のような医者の言葉を全て妄信するのは、是非ともお止めになった方が、身の安全です。

唯一絶対の神を信じる一神教は、間違いのない絶対不滅の神であればこんな幸せな、有り難い存在はないでしょう。
でも、この唯一絶対の妄信が、危ないのです。

日本には、八百万(やおろず)の神がいるとされています。
文字通り800万も神様がいれば、繁盛していない神は「さぞかし(経営が?)大変だろうなあ」と密かに同情しつつ・・・

わずかなお賽銭で、数カ所の神に、多くの願い事を叶えてくれますように、と祈る自身も「とっても(性根が?)卑しい奴だなあ」と思います。

大手のブランド力のある神様が必ずしも願いを叶えてくれるとは限りません。

逆に中小の、あるいは零細の神様が意外と自身の感性にピッタリ合ったりもします。

日本では、今、医者不足が、叫ばれていますが医師免許を持っている人が、20万人以上もいるそうです。

こんなにたくさんの医者がいて、こんなに多くの医療情報が、氾濫していても
 どんな医者が・・・
 どこの場所で・・・
 どんな診療を・・・
如何なるスタンスで行なっているのか、が分かりにくい。

だから・・・
医者の数が足りない「医者不足」ではなくて医者を予測できない「医者不測」になっているのではないか、と思います。
不足とは、欠けていること。不測とは、計りがたいこと。

大手のブランド力のある病院にいる一人の医者だけに依存せず院内が、ガランとして、恵まれない、経営が!苦しそうに見える患者数が、少ない中小の、あるいは零細の医者にも診てもらうことで感性にピッタリ合った出合いが、意外にあるのかも。

これは・・・
境内が、ガランとして、恵まれない、経営が?苦しそうに見える信者数が、少ない中小の、あるいは零細の神様が、なんだかホッと落ち着けてお賽銭が、価値あると思えるように。

多くの神様が、住む日本の「多神教」のように今の日本では、多くの診療科が、力を合わせて協力する「多診協」が是非とも必要なのではないでしょうか。

患者さんに申し上げたい・・・
『一人の医者に依存したら危ないぞ。医者は、無欠な神様ではないんだよ』と。

私自身にいい聞かせたい・・・
『勘違いするなよ。お前は、路端にいる一介の脳外科医に過ぎないんだぞ』と。

患者の「医者選び」のリスク・マネージメントは・・・
医者の「日常診療」のリスク・マネージメントは・・・

医療に限らず、私たちが日常の生活において多くの人を『助け上手』になること、そして多くの人が『助けられ上手』にもなることだと。

それを、節度をもって協力し、共に生きる「共生」が患者と医者のリスク・マネージメントではないかと昨今の医療事情と通年の医者稼業を通じて思うのでした。

2009.11.22

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